トンデモと科学を分けるもの

定説と根拠

歴史学を含む科学においては、様々な定説が存在する。
通常、定説は、色々な角度から検証されている。
純化していうなら、「定説A」を支える根拠は、「a1,a2,a3,a4」と一杯ある。

定説に対する反論

科学の基盤の一つは、自分自身を疑うことである。様々な基盤を相互批判し、それによって、より安定な基盤を作り上げる。
だから定説だから批判されないということはなく、むしろ、数々の批判に耐えて残ったのが定説である、と、言える。


なので定説を批判することは全くタブーではないが、そのためには手続きがある。
「定説Aだけど、根拠のa1の、このへんが怪しくない?」という問題提起と研究は大切であるし、常に行われている。


ただ、問題提起した時点では、a1が本当に間違いかはわからない。
問題提起し、それが他の科学者によって様々に検証されることで、「あ、a1は確かに微妙かもね」となったり「a1のそのへんが怪しいかと思ったけど、調べ直したらやっぱり怪しくなかったよ」と言った結論に達してゆくわけだ。


そういう地道なことを一個ずつ積み重ねてゆくのが、科学的検証である。


検証によって、a1が否定され、定説Aの根拠の一角が崩れることもある。
そのようにa2,a3,a4も否定され、最終的に定説Aが否定されることは有り得るし、そのようなアプローチで定説Aに疑問を投げかけることは、全く問題ない。
逆に、検証によってa1の怪しい点が潰されて、定説Aがより強固になることもある。


だから、良心的な科学者は「a1のここが気になる」という指摘をする時、「定説Aは間違いだ!」などとは断言しない。
個人的に正しいと思っているか間違っていると思っているかはさておき、自分のやっていることが定説Aへの攻撃であると同時に補強でありうることも理解しているからだ。

トンデモな反論

一方、そうした地道な検証を無視して「○○が××なんだから、定説Aは間違いだ!」で定説を葬ろうとするタイプの反論がある。
これらは常識的に考えて、トンデモである確率が高い。


定説が定説である所以は、先に書いたとおり、無数の批判・検証にさらされて、無数の論拠を持つことによる。
それらを、たった一個でチャラにするような銀の弾丸がある、とは、通常、考えにくい。
もしも、「この事実αさえ立証すれば、定説Aは崩れ去る」みたいなものがあれば、その事実αは既に何重にも検証、検討されているはずである。


なので、上記の論が成立するには、
1.事実αに関する専門家のそれまでの検討は、全て間違いだった。
2.専門家が全く気づかなかった、事実αという定説Aの急所を、話者は新たに発見した。
の、どちらかということになる。


1だったら、既に検討・批判の文脈があるわけだから、一行で証明終わり、とはならないし、そうしていたら不誠実だ。
2は「俺は、世界中の専門家をまとめたよりすごい!」という主張なわけだ。
最終的には個別の議論を見なければ決定できないが、彼が厨二病である可能性は、彼が天才である可能性を大きく上回る、と、言ってもいいだろう。
さらに、もし本当に天才であるのなら、学会に提出することで大きな評価を得られるわけだから、そうすればいい、とも言える。

専門家への信頼

上記は専門家の検証による信頼を前提としている。
もちろん、専門家が常に正しいというわけでもない。
その分野を研究している人や歴史が少なければ、専門家の検証も相応に怪しくなる。
政治的圧力その他によって、専門家集団が大々的に間違えたこともある。


専門家だからといって常に何も考えず100%受け入れるとしたら、それはそれで偏った思考である。
ただまぁ、「ネットでだけ声の大きい人」と「きちんと論文書いて審査や批判に応えている人」のうち、一方的に前者を信用するのも、これまた偏った思考である。


確率的に言うのであれば専門家を信じるほうが分がいい、くらいは言えるだろう。
自分で調べるのが面倒であれば、一旦、専門家を信頼しておくのが賢いだろう。

南京事件否定派の言い分

さて南京事件において、専門の史学者は、南京事件と呼ばれる非戦闘員への加害行為は、数万以上の規模で存在していたということを認めている。これが定説である。


南京事件否定派の言い分は、様々にある。
そのほとんどが専門家の無数の検証を一つずつ反証するようなものではなくて、「○○が××なんだから、定説Aは間違いだ!」という「銀の弾丸系」のものである*1
また否定派は、複数の銀の弾丸を同時に上げることが多い。


このことから考えられるのは、以下の二つ。
1.否定派は専門家の業績を理解できないか、意図的に無視する不誠実な存在である。
2.銀の弾丸が幾つも出るほど、専門家の仕事は穴だらけである。


銀の弾丸」一個でも、トンデモの可能性が高いことは先に述べた。複数の銀の弾丸を同時に持ちだすのは、トンデモ確率が、その分跳ね上がる。

自分で調べるのなら

南京事件の場合でも専門家の権威は、否定派によって様々に攻撃されている。
「専門家は偏向している」「政治性の強い分野なので、まともな専門家がよりつかない」等々である。
その可能性はある一方、それを言ってる側が政治的に偏向して陰謀論を唱えている可能性もある。


仮に専門家への信頼を一旦置いて、どちらが正しいか自分で決める場合を考えよう。
「あっちが政治的偏向」「いやあっちだ」というのは水掛け論だから、具体的な論拠、論証に注目すればいい。


専門家の言い分を理解する際、一番望ましいのは、自分で資料に当たりつつ専門家の論文を追ってゆくことですが、なかなかそれは素人には難しい。
研究結果をまとめた啓蒙書や、さらにそれらをまとめたFAQなどがあるわけで、それらを読み解きながら、好きな深さまで調べれば良いだろう*2
否定派についても同様である*3


その上で、否定派は、専門家が提示している資料、証拠のそれぞれを把握した上で批判できているか?
否定派の出した証拠は、専門家の集めた論拠によって批判されているか?
といったあたりを考えればいいだろう。

追記

ブクマコメントより

id:torinositoさん
今回の騒動だと、30万人(a1)への懐疑を、南京事件(定説A)への否定と解釈した人が騒いでいたと理解。

「犠牲者数が30万人かどうか」というのは、a1への懐疑には、なりえないんですよ。
なぜなら犠牲者数というのは、南京事件を構成する無数の事実をそれぞれ一つずつ検証、分析した結果、最終的に推定される数なんですから。
少し具体的に言うなら、「何月何日に、どの部隊は、どこで何をしたという記録があって、何月何日には、ここでこういう目撃例があって、何月何日には、ここでこういうことが起きていたという証言があって……」というのを、丹念に集め、それをまた一つ一つ検証し、相互に比較、分析し、まとめた結果、やっと「合計○人の犠牲者がいると推定される」という結論がでてくるわけです。
つまり、「犠牲者は何人?」って聞く行為は、a1、a2、a3、a4の全部に関する質問なんです。


積み上げられた検証の検討をすっとばして、いきなり結論を求めているという時点で、科学的な手続きから外れているわけです。


南京事件について、a1への批判をするというのは、例えば、「南京事件の中で、××の部隊が、△△の日に、捕虜○○人を処刑したというのがあるけれど、これを支える資料のうち、ここがおかしい」という風に、はじまるでしょうね。


あるいはこうも言えます。「犠牲者者が30万人なのはおかしいと思う。なぜならば〜」という文章を考えてみましょう。
「なぜならば〜」というのを書こうとすると、南京事件の全ての事件を全部検証することになり、ものっっっすごく長い議論になるます。
でも、torinosotoさんはじめ、これを口にする人は、多分、そんな長い議論が続くことを意識していないでしょう。
「30万人はいくらなんでもおおすぎる。なぜならば、○○は××だからだ」くらいで済むと思っているはずだ。
であるなら、それは、先に述べた銀の弾丸そのものなのです。


もちろん、感覚的に「多いんじゃね?」「少ないんじゃね?」と思うのは自由ですが、科学的な手続きをすっとばし、専門家の研究を無視して、当てずっぽうで数が「多い感じ」「少ない感じ」と言うことに、どれだけ意味があるかは疑問です。
また思うのは自由として、発言する場合は、慎重になるべきでしょうね。発言によって傷つく人がいるわけですから*4

追記2

id:torinositoさん
id:motidukisigeruさん、「torinosotoさんはじめ、これを口にする人」私自身は特に30万が多いと主張したことありませんよ。ただ、最初から徹頭徹尾、話がかみ合ってないのを揶揄しているだけです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20090603/p1

該当箇所を修正しておきます。
さて、「30万人は多すぎる」と言っている人で、「30万人への懐疑=a1」と主張してる人は、今のところおらず、その分析を行ったのは、torinosotoさんなわけです。
さて、「30万人は多すぎる」と言っている人で、「30万人への懐疑=a1」と主張してる人は、今のところいるはずもなく(そりゃこの記事書いたばかりですから)、「30万人は多すぎる」派の人が「30万人への懐疑=a1」と考えてると、推定したのは、torinosotoさんご自身なわけです。


なので、torinosotoさんは、その分析にそれなりの妥当性を見いだしているのではないかと理解するわけですが、その分析が妥当ではなく間違いである、ということはお分かりいただけましたでしょうか?


要するに些細な一部分に対する疑問を、定説への全否定と勘違いした人が騒いでいる、と、おっしゃりたいんでしょうが、「30万人は多すぎねぇ?」というのは、言っている側の意識がどうあれ、「些細な一部分に対する疑問」ではなくて、「定説全体への疑問」にならざるを得ない、という話です。
確かに、感覚的にわかりにくい話であり、それによって混乱している方も多いと思いますが、そのために、こんだけ文章書いたので、わからんところがありましたらご質問いただければと思います。

*1:最近の例として、http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51470094.htmlの、「中国軍が虐殺を放っておくわけないから、南京事件は間違い」をあげておこう。

*2:念のために書き添えておくと、専門家の発言に矛盾や間違いを発見したと思った場合でも、結論は急がないほうがいい。自分の勘違い、読解力不足である可能性は高い。落ち着いて「これだとこうなるはずなんだけど、自分の理解はどこかおかしいかな?」と聞いて見るといいだろう。

*3:否定派のまともな論文というのは、ほとんどないし、それも怪しい理由なわけだが、さておき

*4:「原爆の被害者数って多すぎるんじゃね? 別に調べてないけど」と言われた場合を想像してみれば良いと思います。