東氏の特異点分析

東氏の分析方法

2009-06-01 - 東浩紀の文章を批評する日記のコメント欄より。

motidukisigeru:
ポストモダンだから、作品性vs環境性
というわけでもなく、
ポストモダンだから、作家性vs物語の構造・性質、時代の意識
というわけでもなく、

現代特有の環境や消費の形や現代特有の意識を反映した物語構造を、抽出・分析している、という話ですね。

東氏が、ポストモダン的な心性・社会性を分析するために、作品の受容のされ方を分析する時、それらは当然、個々の作品ではなくて、それらを成立させている背後の環境・流通・消費形式への分析に向かうわけである。

その意味では、東氏の批評が「ネコミミの消費だけを語る」ことになる点は正当化されるだろう。

というわけで、東氏の問題意識が、ポストモダン的な心性・社会性を分析するために、作品の受容のされ方を分析しているとしよう。


さて、現代特有の環境や消費の形、現代特有の意識を反映した物語構造を抽出・分析するにあたって、大ざっぱに二つの方法論があると思う。


1.現代らしい作品群のピックアップと、共通点の抽出
2.特異点的な作品のピックアップと分析


この二つは、互いに補い合うものであり、どちらが欠けてもいけないものだ。

ネコミミ分析

端的な例として「オタクはネコミミを記号的に受容している」という現代的な消費の方法を推定する際、確かに、「コゲどんぼ」個人の絵柄とその作家性についての細かい議論は入りにくい。


けれど、その消費形式をきちんと分析するのであれば「ネコミミ系作品」および「ネコミミ系の流行・伝播」といったものを、広く集めて、それらを検証してゆく必要がある。


……が、私は、東氏がそれを説得力のある形でしているのを見たことがない。
東氏が、ポストモダンについて語る時、それらは、もっぱら、端的でわかりやすい作品についての分析を取ることが多い。
例えば、エヴァンゲリオンであり、Airであり、マトリックスであり、西尾維新である。

エヴァンゲリオン分析

エヴァンゲリオンという作品があって、オタク文化の中で、大なり小なり特異点あるいはエポックメイキングであることは了解されるだろう。


東氏は、エヴァンゲリオンの特異性を分析することで、時代の精神に迫ろうとする。この分析は、正しいか?


単純な話になるが「エヴァは、今までの作品と、ここが違う。ここが現代特有」というのを、しっかり指摘するためには、今までの作品をちゃんと見ていないとわからない。
「ここが新しい、現代特有」と東氏が考えた点は、5年前、10年前にもあったかもしれない。
もちろん過去にあった=ノットポストモダンというわけではないが、仮にエヴァそっくりの話が30年前にもあって大受けしていたとしたら、そこは比較検討すべき点となるだろう。

マトリックスポストモダン

例えば、東氏は、映画『マトリックス』がポストモダンの心性を反映した、と、主張している。


一方で、マトリックスのテーマである、バーチャルリアリティと実存不安を絡めた作品は、ごく昔からあり、それ相応に人気を得ている。
SFで言うなら、ディックの諸作品なんかは有名どころだろう。ラノベで言うなら、80年代から2000年代まで、この手の作品は、常に出ていて、一定以上の評価を得ている。
この時、考え方は二つある。


1.それらの作品が受けた時代と、現代は、共通する実存不安があった。例えば、ディックの作品がブレイクした時期は、アメリカのベトナム戦争およびLSDの広がりと重なっており、強く正しいアメリカという大きな物語の解体と薬物による現実崩壊という点で、ポストモダンである現在と共通点を持つ、等。


2.実存不安をうまく描いた作品は、いつの時代も定番の人気作であり、1999年にマトリックスが受けたのは、それ以外の理由……例えば、発展し続けていた特撮・CG技術が、ようやく、この時点で、そのテーマを表現できるようになった、等。


1、2のどっちかが正しいというわけではなく、複合的な理由であったり、また、それぞれの比重であったりといった議論ができようが*1、いずれにせよそれを調べるには、映画マトリックス単体を評論するだけで終わっては意味がない、とは言えるだろう。


マトリックス』を見て、「ここがポストモダン」と思うのは、結論ではなくて、出発点に過ぎない。

環境を調べるって大変よ

一般論として、個々の作品について感想を述べることに比べて、それらの作品全体を背後から支える条件について調べることは、大変にハードルが高い。


もちろん、個々の作品を本当に語るのであれば、その作品を支える時代や環境を理解する必要があるわけで、まともな批評を行うためには、きちんとしたバックグラウンド、勉強が必要だ、という当たり前の話だ。


なのだが、東氏は、そうした体系的な調査を避ける傾向があり、また、避けることを正当化しかねない発言を何度もしている。
また、彼の考える時代精神の反映の中には、どう見ても、おかしいものが混ざっている。
例:『ナデシコ』も『セイバーマリオネットJ』も、敗戦からくるアメリカコンプレックスの結果である。
第1章 オタクたちの疑似日本 - 東浩紀の文章を批評する日記

語りにくい特異点

エヴァンゲリオン特異点」というのは、テーマ、ストーリーのレベルから様々に語ることができる。


一方で、私は「美少女戦士セーラームーン」は、これはオタク文化と消費行動における、大きな特異点であるといって問題ないと思うが、東氏はこれには、ほとんど言及していない。

こうして'85年〜'86年から日本アニメは、大資本がバックについて国際的な評価も高い宮崎、押井、大友らのメジャー路線プラス、『ドラゴンボール』『美少女戦士セーラームーン』などの子供向けメガヒット路線と、OVA、同人誌、マニア雑誌という非常に閉塞したマーケットの中で堂々巡りの再生産を繰り返すオタク路線に分化していった。
『週刊SPA!』1997年4月30日&5月7日合併号「エヴァンゲリオンとは何
だったのか!?」
参考:
http://www.st.rim.or.jp/~nmisaki/topics/btoazuma.html

このように、エヴァに関する一般向け紹介の文章中で、セーラームーンをオタク路線と対照である「子供向けメガヒット路線」に分類しているほどである。


さて、なぜ、東氏にセーラームーンが分析できないかというと、ストーリー、テーマの面から見た場合、セラムンは勧善懲悪恋愛といった普通のもので、ポストモダンに絡めることができないからだろう。


一方で、セーラームーンがオタクサイドに確固とした位置をもち、オタク的な消費の中に新たな一角を作ったという点からすれば、オタクの反応と消費のされ方から、現代性、ポストモダン性を語ればいいはずだが、この方面の東氏の分析は、実に少ない*2


それをするのに当然必要な、具体的な市場分析やら聞き取り調査やら、そういうことを全く行っていないからだろう。


だから、「オタクは記号を消費する」レベルの話から、一歩も進んでいない*3


セーラームーンは一例であり、もちろんセーラームーンを取り上げていないことをもって、東氏の業績を否定することはできないが、私から見て東氏は、センセーショナルな作品の、わかりやすくセンセーショナルなポイントだけをピックアップし、そこから生まれる印象論で人を煙に巻いているように思える。
そうでない批評をしている部分があったら、お教えいただければ幸いである。

そもそもなんで、本やアニメを分析するのか?

 しかしもちろん、こういう「素朴リアリズムへの信頼」は必ずしも自明ではない。たとえば文学やマンガの中で多重人格が好んで素材として取り上げられているからといって、それが現実における多重人格現象を適切に反映しているとは限らない。
 というより社会について考え語りたいのであれば、文学やマンガなどすっとばしてジャーナリスティックな文献や社会科学書を読めばよい。プロの研究者やジャーナリストなら直接にリサーチを行えばよい。文学やマンガを通じて社会を見ようというのは、そのようなメガネを通じることによってこそよく見えてくる現象を主題とするのではない限り、効率が悪い。文学やエンターテインメントは特権的な社会の鏡やのぞき窓というより、社会の一部である。もちろんそれも社会研究の対象ではあるが、そこに社会の「全体」なり「本質」なりが見えてくるという保証はない。
『オタクの遺伝子』続編のための覚書 - shinichiroinaba's blog

サブカルチャーを手がかりにポストモダンを分析することには上記のような反論があり、これは全くその通りだと思う。


逆を言うならば、ジャーナリスティックなリサーチを厭う人間が、それをごまかすために作品論に逃げていないか?
その問題は、批評家は強く意識し、自省し、それを反映させるべきであると思う。

*1:そのようなCG技術の発展こそが、あらゆるものがニセモノであるかもしれないというポストモダン的な心性の反映であるとかなんとか

*2:オタク作品が記号でデータベースで……というのが、動ポモのでじこ以外で、まともに展開された例がありましたら、どなたか教えてください。

*3:そして、その文脈の中で、「コゲどんぼに作家性などない」「俺は作家性を理解できるけど、消費者は記号に反応しているだけ」と言うので、イラっとするわけだ。