ササキバラゴウインタビュー

 「おっさん奮戦記」といった面もち。
 美少女ゲーをやる世代からは、一個上の人が、美少女ゲーに至る過程や、プレイした話なんかを語る。
 昔のオタクはどんなだったか〜という話、今の美少女ゲームは、昔の何にあたるか、とか、そのあたりは面白い。また、美少女ゲーの面白さの感覚を、きちんと自分の言葉で書いているので、そのへんもいい。

共同討議 冒頭

 それは歴史の断絶ということです。一九九五年が『新世紀エヴァンゲリオン』の年で、一九九六年が『雫』の年なんですが、それ以降、僕たちの周りの作品にはひとつの共通したフォーマットがあったと思うんですね。ひとことで言うと実存主義化で、『エヴァ』以前には、思春期の悩みがストレートにアニメやゲームで表現されるのは決してメインストリームではなかった。けれども、一九九五年以降は、美少女ゲームだけではなく、サブカルチャーのチープをまといつつ、トラウマや癒しをテーマにした作品がぱっと増えた。これは『エヴァ』が作り上げた独特のパラダイムと言えると思うんだけど、奈須さんや冲方さんというのは、そこから連続しているようでいて切れている。

 東氏の妄言。
 この人、世の中全部がエヴァで回ってると思ってるよ。
 「思春期の悩み」を書いたアニメなら昔からあった。
 エヴァ以降、エヴァっぽい作品は雨後の竹の子のように出るわけだが、そうじゃない作品も、当たり前のように出ていた。
 みんながみんなシンジ君悩みをしてたわけじゃない(というか、そういう作品は、実は、それほど多くない)。

 エヴァの歴史が、奈須、冲方で切れる? 何言ってるんだ、この人は。
 要するに、「雫」の時代が、「月姫」あるいは「Fate」で終わったことにしたいらしいんだが。それ自体は、まぁいいとして、この前提がバカ。

共同討議 ホワルバ

 次に、雫からTwoHeart、ホワイトアルバムへ至る流れ。

更科:あのゲーム(註:ホワイトアルバム)が当時、すごく批判された理由って、どうやってもだれかを傷つけるっていう構造だったからなんだよね(中略)。でも『To Heart』以前はそんなことになっても、別に罪悪感を感じてはいなかったんですよ。フィクションとの距離がまだ離れていたというか。鬼畜系のゲームとかも普通に売れていたし。(中略)ユーザーの反応としては、「せっっかく『To Heart』ので楽園を構築したのに、一年も経たないうちになんで自分から叩き壊そうとするんだこいつら(Leaf)は」という感じだったし。

 ホワイトアルバムというのは、様々なヒロインがいて、誰を選んでも誰かが傷つき、そこで修羅場になるというゲーム。俺は個人的に好きだが、人気がなかった。

 で、更科はすぐ、「オタクが楽園を求める。楽園を脅かされると怒る」とか言うだすのだが、この場合、ユーザーが怒ったのは、看板に偽りがあったからだろう。

 ホワイトアルバムが、「リーフが送る衝撃作! 激・修羅場ノベルゲーム! あなたは誰を選びますか? そして誰を泣かせますか!」という売り文句なら(さらに売れなかったかも知れないが)、買ったユーザーは別に怒りはせんかっただろう。

 普通の純愛ゲームとして宣伝されたものだから、ToHeartみたいな印象を持った。それを裏切られたから、腹が立つ。それだけのことだ。プレイヤーの予想を裏切るのが悪いとは言わないが、リスクの高い手法ではある。それによって叩かれることも、普通にあるだろう。

 「フィクションとの距離が離れていた」云々は、まるで無関係。
 ストーリー性があって、キャラに感情移入し、故に下手なことするとオタクが怒るゲームは、ToHeartの遙か前からあった。同級生あたりが基本だろう。

共同討議 未来にキスを

 元長本人は、「未来にキスを」は、他のゲームと同じ普通の作りだというが、他の3人が「んなわけないでしょ」とつっこむ。
 元長は、自作について言及するのを避ける一方、他の3人が、無闇に持ち上げるという気持ちの悪い構図になっている。

 元長からすると、ゲームに感情移入させ、仮想的なコミュニケーションを体感させる手段という意味で、ノベルゲームは、皆、一緒。自作のゲームも、その手段の一例である、ということだろう。

 さて、「未来にキスを」を、東たちは批評性の高いメタエロゲとか評価するわけだ。

 で、この作品なんだが、非常に皮相的に語れば、以下のようになると思う。(「未来にキスを」、ほか、元長作品をプレイしていない人は、話半分以下で聞いてほしい)。

 エロゲーというのは、あらかじめ決められてるテキストを読み出しているだけである。本来、そこに、知性的なやりとりは存在しない。
 しかし、そこをごまかして、仮想的な「キャラ」と、お話ししている。少なくともゲーム中くらいは、そんな気分にならないといけない。

 そうするための方法論は様々だが、「未来にキスを」は、「ディスコミュニケーションこそがコミュニケーションだ」という屁理屈を生み出した。
 人間同士でもわかりあえるコミュニケーションなんて存在しないし、別になくたっていいんだ。だから、ディスプレイの向こうのキャラとのディスコミュニケーションだって、本物のコミュニケーションなんだ、という理屈である。

 そのへんを、あっけらかんと、明るく、かっこよく、しかし、どこかにひっかかる言葉で言いくるめる手管は実にうまい。それによって信者的なファンも獲得している。そのへん、正直、あざとくて苦手なとこだったのが、ここまで自覚的にやっているとわかったのは収穫だった。

 元長は、これを別に批評的行為として行っているのではなく、つまりテーマ自体にこだわっているわけではなく、単に、プレイヤーをゲーム内に感情移入させるための一手段として持ってきた、と主張する。
 その様子は、かっこいい。

共同討議 TYPE-MOON

更科:うん。必ずしもそれだけじゃないんだけど、『月姫』が台頭して以来、途端に言葉が通じなくなった印象がある。

 まぁ感覚だけで物いわれてもなぁ、という感じだが。

 普通に考えて、月姫は、ToHeart以降の流れの会話中心萌えキャラ系ノベルゲームに対して、「痕」的なテキスト中心伝奇スタイルを復権した作品でもあると考えられるのだが。

 まぁ、更科、東が言いたいのは、ユーザーの受容のスタイルの変化という点らしい。
 言ってることを総合すると、TYPE-MOONのユーザーあしらいがうまいのがムカつく、ということになるのだが。
 そこから、話はどんどん私怨めく。

東:(KANONAIRの)麻枝さんは、弱々しくて女々しい話ばかり書いているシナリオライターじゃないですか。そういう物語を中心にコミュニティができているというのは、それはそれで自虐的かつ自慰的で気持ち悪いのかもしれないけど、オタクとして、というか、一九八〇年代以降の日本に生きる男の子としてまともな屈託を抱えてる感じもするわけ。だからこそササキバラ・ゴウさんのような問題意識も出てくる。
 それに対して、奈須さんの新作は英雄の話でしょう。おまけに、いまや空前のTYPE-MOONブームなわけで、彼自身も一種の英雄扱いなわけじゃない。そこには弱さのモチーフが感じられない。奈須さんは単純に天才の話、英雄の話を書いていて、そして、そんな彼も天才や英雄だと思われている。第二の『月姫』を目指せ、俺も講談社ノベルスでベストセラー、って単純な上昇志向でしょう。そこに違和感を感じる。

 だから、世の中の全てがエヴァで鍵な屈託でできてるわけじゃないんだって。この人の頭の中では、すべての作品は、女々しい屈託にみちてないといかんらしい。そうでないものは、全部「違和感」。

 世の中のエンターテイメントでは、葉鍵的なものこそが奇形であって、少年漫画の主人公的に頑張る話のほうが、一般的なわけ。
 オタクメディアに限るにせよ、ライトノベル、アニメ、そして無論、美少女ゲームのなかで、普通に頑張る主人公は、数限りなく存在した。
 あと、Fateのその要約もどうかと思うが。

 更科は、同人サクセスストーリーとしては、Fateの前段階として、『こみっくパーティ』があったと指摘する。それは、同人作家として成り上がったみつみ美里の再現ゲームとも読むことができる。

更科:(こみパが)商業作品としてヒットすることで、「社会をオタク化すれば、オタクのままでも幸せになれる」という閉塞的な欲望がイデオロギーとして肯定されてしまった。
 『月姫』にもそういう匂いがあるんだけど、大半の人々は違和感を覚えずに喝采を挙げている。要するに同人業界のビッグネーム、同人セレブに同一化して、そのサポーターとして振る舞うことで自分が強くなったと錯覚してるんです。

 こういうのは、普通、「ロールモデル」という。

 大リーガーに憧れて、野球の練習をする子供がいる。大リーガーになれずとも、大リーガーに憧れながら、社会人野球をする人がいる。
 そうした人々が、野球というスポーツを支えてゆく。
 それの何が悪いのか?
 と思ったら。もっと爆弾発言が待っていた。

東:オタクがオタクの中で偉くなるというのが、正直よくわからない。作品が評価されて金持ちになるのはいいとして、オタクであることを選ぶというのは、そもそも、社会的な価値に適応できないから脱社会的存在になることを選ぶ、という絶望とか諦めとかと表裏一体なわけでしょう。
更科:ヤンキーと同じですよ。ヤンキーも脱社会なのに、すごく強力な縦社会があるじゃないですか。
東:そんなに縦社会が好きなら、最初から大学行って会社入ればいいのに。

 大学行って会社入ってるオタクはいねぇのかよ!
 東の中のオタクというのは、パラサイトシングルなひきこもりに限定されるようだ。

 オタクであることの根本は、何かが好きなことだ。好きな趣味があって、それに時間やお金を費やし、同好の士とつきあい、また、自分で何かを生み出す。そういう楽しいことの全てがオタクだ。
 無論、例えば、いいとしこいてアニメみたり、エロゲやってたりすれば世間の風当たりは強くなるし、社会に対するルサンチマンは、オタクの第二の属性でもある。
 世間から差別され、また、自分の小さい楽園にこもって世間を差別し。そういう側面は、オタクから切っても切れない。

 ただ、「脱社会」とか勝手にくくられるのも、見当違いだ。
 普通のオタクは、学校行きながら、あるいは会社いきながら、オタクをやっているわけで、一般の社会的な幸福の全てを否定してるわけでもなんでもない。

 誰しも、社会のルールとつきあいながら、それを適当に利用しつつ、自分のためのルールも持っている。オタクもそれと同じだ。快適なオタクライフを送りたいがために、勉強やら出世やらに邁進することもある。その程度の問題だ。

 「オタクの中で偉くなる」ということが、東にはわからないようだ。
 よろしい。おしえよう。

 オタクの中で偉くなる、というのは、オタクとして楽しい体験を、より多くの人に与えることだ。
 一番、わかりやすいのは、例えば、良い作品を生み出すことだ。漫画家になること。ゲームを作ること。アニメを作ること。もっと手軽に、同人誌を作ること。短編小説やイラストを公開すること。面白いオタ話をすること。
 次には、良い作品を楽しむ環境を作ることだ。アンテナとなってニュースを伝えること。埋もれた作品を発見して、その良さを伝えること。より楽しめる知識体系を広げること。良い作品の感想を皆と共有したり議論したり、と、いったこと。

 そういうことをした人が、オタクの中では偉い。ほとんどの場合は、それだけのことだ。

 縦社会的な側面も、無論、ある。
 大学のサークルにいけば、無意味に先輩が威張ってるかもしれないし、「濃さ」「知識量」をひけらかして差別するオタクもいる。小さなコミュニティになればなるほど、そうした人間関係が大きな比重を占める。
 ……しかしまぁ、それは、たいていのコミュニティに共通する属性だ。
 社会人野球に行ったって、年功序列な人間関係やら権力関係やらはあるだろう。
 その中でオタクコミュニティは、どちらかといえば、縦社会的な締め付けは緩いほうだと思うが、東の中でのオタクイメージは、未だに「オタクから遠く離れてリターンズ」で止まってるのかもしれない。
http://www.t3.rim.or.jp/~goito/otato-R1.html*1

 東と更科の質問に応えるなら、自分が気に入った作品のサポーターになるのはポジティブなことだし、胸を張れることだと思う。自分の感動を、より多くの人と共有できるのは、嬉しいことじゃないか?*2

 オタクは、その程度の社会性さえ持ち合わせないと思ってるのか?
 その程度の認識でオタクを語るから、優越感と差別がにじみ出てるから、オタクに嫌われるんだよ。

*1:一体誰がコミケを潰すの? これだけ社会的に大きな存在になっているわけだから、おいそれと無くすなんて無理じゃない?、という名言が読める

*2:もちろん、自分だけの名作が、メジャーになる時には、反発、とまどいもあるわけだけど。