付記

 東氏の9月4日の日記のコメントに、上記記事に関する言及があり。

ただ、『キャラクター小説の作り方』における大塚氏の批判は、正確には、TRPGそのものというより、TRPGのリプレイを下敷きにして作られたキャラクター小説に向けられています。僕はそこは同一視しても構わないと考えてあの文章を書いたのですが(そしてそれは大塚氏の立場の解釈としては間違っていないと思いますが)、それがちょっと繊細さに欠け、TRPGについて誤解しているように見えてしまったたかもしれません。

 問題はそこではなく、「ギャルゲーの形態がライトノベルに与える影響」について語りたいなら、なんで長々と枕でTRPGの話をするか、という点だ……というのは既に書いた。

 さて、そもそもここで言う「リプレイを下敷きにして作られたキャラクター小説」とは、具体的に何なのか?

 今現在、本当にTRPGのリプレイを下敷きにして作られたキャラクター小説というのはないわけでないが、今では非常に数少ない。例えば、今月は一冊も発売していないはずである。

 月一冊も発売していないものについて、大塚英志が悪影響を批判しているのであれば、それは真面目に取り上げるまでもなく、「バカ?」で済むはずである。

 そうではなくて、「TRPGのリプレイっぽい小説全般」というなら、その「リプレイっぽい」という拡張は、果たして意味があるものか、どうか、ということになる。
 ライトノベル作家のほとんどは、別にTRPGを念頭に置きながら小説を書いてるわけではあるまい。何をして「リプレイっぽい」と決めるのか?

 要するに、ここで文句を言いたいのは、TRPGでもリプレイでもなく、あとで東も書いている通り、「特定の規則にそって有限の要素を組み合わせる」物語に過ぎない。ヒロインが救われて、悪が倒されて、世界の秘密が明らかになる、定型の物語だ。

 ……それTRPG関係ないじゃん。
 そんなことでTRPGを持ち出すのなら、「TRPGライトノベルの影響は?」ではなく、「大塚英志TRPGの捉え方は、おかしい」と書けばいい。

 ちなみにおかしいのは大塚英志ではない。そもそも、この拡張は、東浩紀が勝手に言いだしたことだからだ。彼の文章をもう一度見てみよう。

なぜなら、ゲームにおいては、キャラクターは何度も生き返るからだ。リセットがある世界に死はありえない。したがって、このジャンルは、虚構を越えて現実にたどり着くことができない

 上記は、大塚の主張を東が要約したものである。
 この文章。コンピュータRPGと、TRPGの、どちらにあてはまるだろうか?
 リセットして死から何度でも生き返ることがTRPGにもないとは言わないが、この場合、それはコンピュータRPGを指すのが妥当だろう。

 じゃぁ、どこからTRPGなんてものが出てきたのか?

 ややこしくなったので、最初に戻ろう。

 大塚英志は、「キャラクター小説の書き方」で、類型的なキャラ、物語が、娯楽作品において必ずしも悪でないことを述べている。そして世界観、キャラ、プロットに分けて、類型化した作り方を説明しており、その中でTRPG的技法によって物語を作る方法についても言及している(東が言っている"リプレイ"というのは、このTRPG的技法のことだろう)。

 一方で、物語、フィクションの中で、肉体や、その傷、生と死を描く困難について何度も言及しており、漫画がいかにして、それと戦ってきたか、またゲームにおける生と死の表現の問題についても語っている。

 後者については、キャラクター小説の技法の話から、クリエーターとしての大塚英志個人の心情吐露になっており、唐突な感はある。が、内容としては容易に理解できる。

 ゲームへの大塚の批判を、安直と言うのは、無論、一つの見識だ。

 ただ、そこで「大塚が言ってるのはゲームではなくTRPGなのだ」という東の主張は、どこにも根拠がない。
 TRPGも、もちろん、フィクションの一形態として、肉体や生と死の問題はつきまとうが、TRPG自体を批判してる箇所は、大塚の本には、あまりない。

 根拠のないものを振り回して、明後日に吼えるのは、まず滑稽というものだろう。