第2章 いったんまとめ

 区切りたかったので、日を変えました。

 さて、東の論では、第1世代オタクは、作品そのものを素直に消費していた。第2世代オタクは、作品そのものではなく、その背後にある設定、背景世界を消費していた(物語消費)。第3世代オタクは、個々の作品ではなく、オタクマーケット全体を、萌えキーワードで切り取って、作品内、あるいは、複数作品間の萌えキーワードの組み合わせを消費する(データベース消費)。

 その理由、メカニズムは、全く語られない。ポストモダンだから、そうなる、というだけだ。

 読者の疑問としての、「ポストモダン化」というのが、本当に社会全体で起きてるのか? 起きてるとして、それはオタク界では、実際にどのようなメカニズムで起きてるのか、というのは、特に答えられることはない。

 仕方ない。メカニズムを考えてみようではないか。

 まずは見直しである。

 第1世代オタクが、素直に作品だけ消費していたかというと、怪しい。SFファンから入った連中が、設定や科学考証をしなかった、とは考えにくい。次に、第3世代オタクも設定話を、しなくなったわけじゃない。

 そのへんは置くとして、確かに、昔は、よるとさわると、設定ばっかり語っていたのが、いつのまにか「萌え〜」ばかりになった、とは言えるかもしれない。それは、なぜか?

 ポストモダン云々を、とっぱらって、単純に考えてみよう。

 人間には、自分のしていること/考えていることを、周りの人間に認めて欲しい、という欲求があると思う。なんなら、「大きな物語=社会規範」と言い換えてもいいけど、これは、時代を問わず、そうだろう。趣味であれば、同好の士は、欲しい。

 一方で、人間は、周りと違うところを評価されたい、とも思っている。「君は、他の人と違ってすごい」と言われたいという欲求は、これも時代を問わず、そうだろう。

 この二つを、言い換えると、共通した価値観の中で、他の人より高く評価されたいわけだ。これは、人間の基本的な性質であって、昔から現在まで、ほとんど変わらない、としておく。

 では変わったのは何か、というと、技術とインフラである。アニメの場合、具体的には、同好の士と出会って交流するための、発信・受信のコストである。

 昔は、同好の士を捜すのが大変だった。一生懸命連絡を取って、せっかく出かけていっても、相手と話題が合わないのでは困る。だから、みんなが知っているアニメが、共通の話題として必要とされた。マイナーなアニメについて語れるのも「芸」だが、それはそれとして、メジャーなアニメの話題も知ってないといけなかった。

 次に、ガンダムならガンダムで話題を交換する時、その中で目立つには、誰もがわかる評価基準が必要だった。設定……に限らず、いわゆるオタ話は、評価基準がはっきりしていて、誰もが「おお、君はよく知っていてすごい」と言えるところが重要だった。

 この二つを合わせて、みんなが語れるメジャーなアニメ、設定について自慢できるアニメが必要とされた。

 現在、同好の士を見付けるのは、非常に簡単になった。今、放送中のあらゆるアニメについて、2chのスレにいけば、仲間と語り合うことができる。

 その中で、独自性を発揮するには、設定について語るのも、一つの手ではある。ただ、設定等の知識を得るのは、労力的に大変だし、評価基準がはっきりしている=勝ち負けがある、ということでもある。せっかく頑張って覚えても、目立つのは大変なのだ。

 そこで出てくるのが、「萌え話」である。萌え話は基本的に対立しないし、組み合わせと細分化で、好みの大きさの集団を作ることができる。

 例えば、「エヴァが好き」という人間がいたとする。同じエヴァファンが沢山いるのは嬉しいけど、その他大勢に埋もれるのは嫌だ。 その時、「いいんちょ萌え」とするなら、エヴァファンに属しつつ、少し小さな集団として、目立つことができる。委員長ファンでも大きすぎると感じるなら、「委員長の○○なとこが萌え!」と、どんどん切りつめていけばいい。

 萌え属性は、なにせデータベースなので、このへん便利で、andとorを使いこなすことで、色々な大きさの集団を作ることができる。いつでも新しい組み合わせを作って、「この組み合わせは俺が発見した、俺独自のもの!」と言うことができ、それと同時に、そこに属するファンを集めることもできる。かくて、いいんちょは、「眼鏡」+「そばかす」+「世話焼き」に属性分解されることになる。

 オタクにとって設定マニアになるより、萌え属性主張のほうが労力が少ないので、人間は、萌え属性主張のほうに傾きやすい。今までこれが(あまり)出来なかったのは、集団の中で、そんな小さい独自性を追求していくと、あっという間に孤立してしまい、帰属する欲求が得られなかったからに過ぎない。

 以上が、望月なりのモデルだ。このモデルには、無論、色々穴があると思う。ただ、モデルとして果たすべき、最低限のことはしていると考える。過去から未来の変化と、そうなったメカニズムを、単純でわかりやすい形で示したし、導入している仮定は、十分に一般的で必要最低限であり、検証可能なものだろう。

 さて、ポストモダンの立場を考えると、まさに、こういうインフラの変化による、人間の変化こそが、ポストモダン化の一つの現象なのであり、こうしたことは既に、さんざん議論されているのであろう。

 されてるんだろうとは思うが、「動物化するポストモダン」という一冊の本の中で、そうした話は出てこなかった。これは、東が「世界はポストモダン化しているのだ」という仮定を、疑わずに導入して、「だからオタクもポストモダン化している」と決めつけたことに端を発している。

 東の言うように、オタクの変化は、社会全体のもっと大きな変化の一つの部分なのかもしれない。望月の書いた小さいモデルを含む、もっと大きなモデルがあるのかもしれない。というか、それはあるだろう。

 だが、最初から、社会全体の動向という巨大なモデルを持ってきて、何でもかんでも、それに関連づけて説明する、というのは、おかしいだろう。

 その結果、東が持ち出したのが、「二次大戦のトラウマ」「疑似日本化」といった、検証するのが難しい事実であり、オタクが大きな物語を必要としなくなった、という奇異な仮定であり、「日本的スノビズム」「ジジェクシニシズム論」といった、説明にならない説明である。

 これらは、無理なモデル化から来る歪みである。

 次は2章の残りとともに、なぜ、東の解釈が、オタクの神経を逆撫でするか、を考えていこう。