第2章 データベース的動物

 長くなるので、キーワードを整理していこう。

大きな物語
 生きる意味とかを与えてくれる物語。その中でも、みんなで共有できるようなもの。
 例えば「まじめに働いてお国のために尽くそう」とか、みんなで信じて働いてた時代があったわけだ。
 あるいは「お金を貯めてマイホームを持とう」とか。

 この大きな物語が機能不全を起こしたのが、近代の終わりで、ポストモダンなんだそうだ。

 即座に三つ疑問が思い浮かぶ。

  1. 社会規範となる物語が無くなったのは近代だけなのか? そういう社会規範の力は、時代によって小さくなったり大きくなったりしそうなものだけど? 例えば、二次大戦の頃の日本は、その前の時代よりも、「大きな物語」が強くなったのではないのか?
  2. 大きな物語が機能不全を起こした理由とは何か? 例えば、アメリカと日本では、機能不全を起こした理由も過程も違うかもしれない。そこを検証せずに、どれもこれも「ポストモダン」でくくるのだとすると、意味がないだろう。
  3. で、それはオタク文化を検証するのに、どのように役立つか?

 以上の疑問を持って、先を見ていこう。

 さて、次に東は、大塚の文章を引用して、オタクにおける「大きな物語」を、設定や世界観のことと定義した。

 ……なんで?

 生きる意味を与える社会的規範が、大きな物語なら、作品における大きな物語は、作品自体には顔を出さない設定や世界観よりも、いわゆるテーマや教訓とかのほうが近いんじゃないの?

 ポストモダンの考えでは、「大きな物語」が失われると、オリジナルとコピーの区別がなくなって、シミュラクールが増加するそうだ。

 「大きな物語」を設定や世界観と言い換えた場合、これは「設定や世界観が失われたので、シミュラクール=二次創作が増加する」という文章になるが、これでは意味不明だ。
 (物語消費段階での)二次創作は、設定や世界観が共有できるからこそ作られるんじゃないの?

 物語に作者が込めたテーマやら教訓やらの権威が失墜したから、そういうものに縛られず、二次創作が作られるようになる、というのは、これは、理解できる。

 単純に考えれば、東は「設定」を意味する「大きな物語」と、ポストモダンにおける社会規範を現す「大きな物語」を、別の意味で使っていることになる。
 理由もなく、こういうことをしているなら、文章が下手だということになる。
 あとで、この二つを、意図的に混同するつもりで書いているなら、タチの悪いバカだということになる。

 まぁさておき、これからは設定を意味する場合は「大きな物語=設定」、ポストモダンの場合は、「大きな物語=社会規範」と書くことにしよう。

 では、先を見ていこう。

物語消費について
受け手が、完結した作品(小さな物語、と大塚&東は呼ぶ)自体を楽しむのでなく、その背後に潜む、大きな物語=設定や世界観を消費する姿勢のこと。

 ここを見ると、さきほどの「大きな物語=設定」問題は、少し解決する。

 すなわち、オタク第一世代は「大きな物語=作品テーマ」を素直に受け止めていたのだが、ポストモダン化が進んだ第二世代は、作品テーマを受け入れなくなり、代わりに、作品そのものでなく、そこに見え隠れする裏設定から、全体を包み込む大きな物語を妄想するようになった。
 「大きな物語=設定」は、「大きな物語=作品テーマ」を信じられない、第二世代にとっての規範である、というわけだ。

 ここでの疑問は、「じゃぁ、なんでオタクは物語消費をするようになったの?」である。作品自体じゃなくて、設定を消費するようになったのには理由があるはずだ。

 読んでいく限り、理由は書かれない。「ポストモダンだからそうなった」という循環論法があるだけだ。ポストモダンの理由というのは、今のところ1章の「日本がアメリカに負けて文化的断絶でトラウマになった」というだけだ。

 つまり、「日本がアメリカに負けて文化的断絶を起こしたトラウマ」のせいで、80年代になって、オタクは物語消費をするようになった、と。

 控えめに言っても、突飛な理屈ではなかろうか?

 アメリカ云々を無視して、80年代の日本に、「大きな物語=社会規範」が失墜する社会的風潮があった、ということなら、理解できる。けれど、これも、その理由が考察されてない内に「だからオタク文化ポストモダン化した」と言われても、「ホントかなぁ?」と思うだけだ。

 第1世代、第2世代と来て、次は第3世代だ。
 90年代になると、さらにポストモダン化が進んで、「大きな非物語」を消費するようになる。

 単純な苦言だが、三つの世代を出すなら、第一世代から順番に説明してほしい。また、それぞれの世代に対応する大きな物語を、きちんと区別して違う名で呼んでほしい。そうすれば、単純に読みやすくなるはずだ。

大きな非物語とデータベース消費

テーマであれ、背景世界であれ、単体の作品の背後に大きな構造を求めない状態。
ここでは、作品は、それ自体がキャラとイベントの順列組み合わせで出来上がるシミュラクールであり、キャラというのは、萌え要素の組み合わせと認識される。
萌え要素に分解した場合、「眼鏡っ娘萌え〜」と、あるオタクが言う時、彼は、アニメ「おジャ魔女」のはづきと、ゲーム「ときメモ」の如月、マンガ「屈折リーベ」の篠奈を、並列に受け止め、かてて加えて、保科智子ガシャポン(物語ですらない!)まで買うかもしれない。
このように、萌え要素を手がかりに、作品・グッズを横断するのが「大きな非物語」であり、そのように組み合わせ自体を消費するのを、データベース消費という。

 そういう消費自体が確かにあることは理解できる。
 ここでも問題は単純で、「なんでデータベースなんか消費するようになったの?」という一言に尽きる。九〇年代になったから、というのは、あまりに粗雑な理屈である。

 それを探して次を見てみよう。

コジェーヴの日本的スノビズム
実質的理由がないのにも関わらず、形式的価値で行う行動。
切腹など。

 オタクがポストモダンな存在であることの例として、東が持ち出すのが、上記の「日本的スノビズム」である。
 東によると、個々のストーリーは、ほぼ同じな戦隊物を見るのは、実質的理由がない行為であり、形式的価値でそれを見るオタクは、「日本的スノビズム」なんだそうだ。ちなみにコジェーヴが「日本的スノビズム」を云々したのは50念前だそうで。

 さて、似たようなストーリーが延々続くのは、戦隊物、ロボットアニメに限らない。水戸黄門なんかの時代劇もそうだし、連ドラだって、そういうのは多い。

 だいたい戦隊物を見るのが、ポストモダンで日本的スノビズムであるなら、ポストモダンより、もっと昔の人は、安直な繰り返しものを拒否していたことになる。例えばホースオペラやダイムノベル、黄表紙本が、毎回、全く違う、オリジナリティあふれるストーリーの山だった、とは思えない。

 要するに、毎回同じようなストーリーを消費するのは、大衆娯楽の、かなり一般的な属性であって、そこに「日本的スノビズム」を持ち込むのは、馬鹿げている。

 コジェーヴの次に出てくるのは、ジジェクシニシズム論だ。そこでは「スターリニズムを信じていないのに、信じるふりをしなければいけない」人々が語られている。控えめに言っても、スターリンの恐怖政治と、日本のオタク文化の間には、「そこだけ取り出すと似てないこともないね」以外のことは言えないだろう。

 「ポストモダンによる大きな物語の凋落」という、お題目を前提に、50年前の切腹論やら、スターリン時代の話やらをつなげることに何か意味があると考えているのだろうか?
 仮に見た目が似ていた点があるとしても、どう考えても、それらは成立の理由も経過も違い、内容も違うはずである。それを無視してくっつけるのは、「ポストモダン」を万能接着剤にしてるだけの、単なる言葉遊びである。

 ちなみに、東氏によると、ポストモダンは1914年の1次世界大戦に始まり、ソ連崩壊の1989年まで続く、ゆるやかな過程なんだそうである。前の疑問を思い出してみよう。

  1. 社会規範となる物語が無くなったのは近代だけなのか? そういう社会規範の力は、時代によって小さくなったり大きくなったりしそうなものだけど? 例えば、二次大戦の頃の日本は、その前の時代よりも、「大きな物語」が強くなったのではないのか?
  2. 大きな物語が機能不全を起こした理由とは何か? 例えば、アメリカと日本では、機能不全を起こした理由も過程も違うかもしれない。そこを検証せずに、どれもこれも「ポストモダン」でくくるのだとすると、意味がないだろう。

 ポストモダンって、そんなに簡単に1914年から1989年までの間に段々と起きた、などと決めつけられるものなのだろうか? 例えば、同じ1989年でも、アメリカと日本じゃ、ずいぶん時代背景も違うだろうに、それでも同じように起きた、と決めつけていいのだろうか?
 東が、そういう基本事項に対する懸念がないことが、ここで確認できる。

 ひとまず、ここで整理してみよう。