ポストモダン

 で、それらを「ポストモダン」によって位置づける試みだが、望月の評価では、これは、大きく失敗している。

 仮定を使って、何かを説明する時は、説明のために持ち出す仮定と、それによって説明される結果が、見合うものでなくてはならない。

 つまり、この「ポストモダン」というモデルが、仮定として大きなものかどうかということになる。

 哲学の立場からすると、ポストモダンという概念は、既に、様々な形で検証されており、単なる仮定というよりは、十分に強固な理論なのかもしれない。けれども、少なくとも、この本の中で東が援用しようとした部分は、噴飯物と言っていい。

 第1章では、オタク文化には「疑似日本」があふれるという主張をしたが、これはまず主張自体が検証不可能である上に、2章以降の論で、全く生きていない。

 アニメの方向性を「リミテッド」「フル」に分けて、フルアニメの方向性はオタク的でないと切り捨てているが、これも、アニメの実体に合わない上に、2章以降の論に、なんら寄与していない。

 これらは、東の「最初にポストモダンありき」という態度を現している。

 日本は、アメリカに負けたことでポストモダン化が始まる。当然、それはアニメの世界で起きていなくてはならない。だから、「疑似日本」モチーフや「アメリカンなフルアニメへのコンプレックス」としてのリミテッドアニメが中心でなければならないと。

 それは幻想に過ぎない。社会全体がポストモダン化しているにしても、その細部……たとえばオタク系文化に、どのような影響を及ぼしているかは、個々にメカニズムを調べる必要があるのだ。

 東がすべきことは、「疑似日本」モチーフなり「リミテッドアニメ」なりがが、オタク系文化の中で、どのように成立していったかの原因、過程を、きちんと分析し、その上で、それが社会全体の動きであるポストモダン化と、どう相関しているのかを調べることだったはずだ。

 第2章でも、「最初にポストモダンありき」の立場は続く。

 オタクを3世代に分け、それぞれの消費活動の違いを述べるのはいいが、なぜ、どうして、オタクがそのように変わっていったか、というメカニズムについては、何も触れない。

 社会はポストモダン化している。だからオタクもポストモダン化しているはずだ、で終わりなのだ。それは、説明として間違っている。

 東はここで、コジェーヴの「日本的スノビズム」、ジジェクシニシズムを援用しているが、これも、「最初にポストモダンありき」で、仮定を正当化する役目は、全く果たしていない。

 これらについても、東は、オタクが、どのような原因、メカニズムによって変異したかを調べ、その上で、社会全体の動きと関連づけるべきであった。

 ここで東は、「大きな物語の崩壊」という図式に囚われすぎている。第2世代は第1世代より、第3世代は第2世代より、大きな物語が解体されていかなきゃならない、と決め込んでいるように思える。

 世の中が常に一方向に動いてるわけでもないし、人間だって、そうそう簡単に変わるもんじゃないさ、というのが、筆者の素朴な感想である。

 なおデータベース消費の起源については、望月はささやかなモデルを提供したので、そちらも参照してほしい。東が挙げた第3世代オタク的現象は、すべて説明できるつもりだが、説明し忘れ、抜け、矛盾があったら、是非教えていただきたい。