動物化するオタク系文化 統計的、集合的
短いながらも、「動物化するポストモダン」の要約や、方向性の説明などがあり、いろいろ参考になる一文です。
さて、それによると、東氏は、おたくを以下の観点から分析しているそうです。
(斉藤氏の論とは)ただオタクたちの人間的・主体的な方向に観点を置くのか、集団的・統計的な動きに重点をおくのかという部分でのみ齟齬があるとも言えるわけです。(p24)
えーと「集団的・統計的」と言いつつ、「動物化するポストモダン」に統計のとの字もないというのは、いかがなものか、と思うんですが*1。
「集団的・統計的な動き」に重点を置くには、「集団的・統計的な動き」を把握できないと意味がないですよね。
もちろん、一般書で、細かい生データを延々載せるわけにはいかないですけど*2、それにしたって「こういう調査をしたら、こういう結果が出た」くらいは書けそうなものです。
調査をしないにせよ、最低限、「この理論が正しいとすると、こういうデータが出るはずだ」とか「こういう調査で、その裏付けが取れるはずだ」という姿勢は、意味のある議論をする上で必須だと思います。
けれど、「動物化するポストモダン」の批評で述べたように、東氏の論考って、そのへんが甘いんですよね。定量的な議論は愚か、もっと基本的なところで、単純な反論可能性さえ意識してるとは思えない。
そのへんの問題は、この本でも幾つか見られます。次の「動物化」なんか、まさにそうです。
*1:厳密には、ここで言ってるのは、東氏と斉藤氏の、ウェブ書評、網状言論たちについてですが、そこでも別に統計的データ、視点は、直接でてきません。というより「網状言論たち」の「『戦闘美少女の精神分析』をめぐる網状書評」は、東氏が、「おたくを主体的にではなく、集団的、統計的に捉えるべきだ」という話なので、その展開である「動物化するポストモダン」で統計がないのはどうなのよ?って話になります。網状言論F改文章を読む限り「動物化」というキーワード自体が、集団的・統計的な動きを前提としたもの、と言っていいでしょう。それについては、あとでも書きます。
*2:一般書に載せられなくてもネットに置いてリンクを貼ってもいいよね