動物化するオタク系文化 動物化

 ここでは、「動物化するポストモダン」の大きなキーワードである、「動物化」についても語られます。

(オタクたちは)集団として見れば、結局、猫耳が流行れば、バーッと猫耳、メイドが流行ればバーッとメイド、羽根が流行れば羽根というわけで、単にもう動物的に動いているだけだろう、と。むしろ、そういう風に捉えたほうが、オタクたちの行動は効率的に説明がつくし、その時に集団コントロールの技術がどんどん洗練されてているという展開を見たほうが、オタクのカルチャーは面白いんじゃないの、というのが僕のポイントなんです(p23)。

(九五年以降の時代においては)、実はオタクにかぎらず、ひとびとは一般的に「動物化」してるんじゃないのか、「癒し」とか「トラウマ」とか言いながらも、実のところ主体的な決断よりも統計的な集団として動かされるようになってるんじゃないか、と僕は問題提起をしてみたい(p24)。

 これを読むと、東氏の「動物化」の定義が、「流行に影響される集団」ということが分かります。

 即座に4つほど疑問が、でてきます。

  1. 「集団」として全体の動きだけで見る場合、その集団が流行に影響されてるのは当たり前じゃないの? 集団の動きを、他にどのように説明するの?
  2. 「「主体的な決断」よりも「統計的な集団」として動かされる」というのは、実のところ、どのように判断するの?
  3. 大きな物語」とやらが健在だった時代。つまり、国民的大スターが存在し、みんなで紅白とか見て、同じ話題で盛り上がれた頃のほうが、集団に対する流行の影響力って強かったんじゃないの? 流行に流されるのが動物化なら、今って、むしろ動物化から離れてるんじゃないの?
  4. 社会正義に関する意識や行動とかなら、「流行に乗せられること」vs「主体性」みたいな構造はわかる。動物的には嫌でも、人間的にしなければいけないこと、というのもある。でも、娯楽について「主体的な決断」する必要あるの? 面白いそうなモノに夢中になって反応して、みんなと一緒に流行を共有して楽しめばいいじゃん*1。「主体性」と対立しないんだけど。

 1と2は、反証可能性の問題です。その理論は、どうやったら証明でき、反証が可能になるのか。

 普通だったら、これらに対して、統計的な立場から見た、反証可能性を定義して、次に実際に調査を行って調べるわけです。でも、本書にも、「動物化するポストモダン」にも、そういう記述はありません。南無。

 3は、定量的な計測をする前から浮かぶ、単純な疑問です。「動物化するポストモダン」が、「ポストモダンの時代になって、こんなに変わった」という議論である以上、3は、わりと真っ先に浮かぶ重要な疑問だと思います。

 4の問いは、反証可能性ではなく、単なる姿勢に対する疑問ですね。これも、すぐに思いつく単純な疑問です。

 さて、これらの単純な疑問について、本書では、どのような答えを与えてくれるでしょうか?(ヒント:与えない)

*1:単に娯楽を楽しむことが、社会正義とかと対立することは、もちろんあります。児童ポルノ規制関連とかね。そういう時は、また別