データベース再び

僕はいつも九五年におけるオタク系文化の切断ばかり強調してるわけですが、もちろん連続性もあるわけです。個人的に言えば、それを実感するのが『うる星』の存在なんですね。p165

 いや、全くその通りで。

 『うる星やつら』は、東氏の言う「データベース」の概念を、全部持っている。主人公がいて、まわりに沢山の女の子がいて。各キャラは萌え要素で分類できて、その順列組み合わせで色々な話ができてゆく。
 日常は永遠に終わらなくて、話の最後で学校がブッ壊れようが、石油の雨が降ろうが、次の話ではリセットされて、平然と学校に行く(東氏の言う「多重人格的要素」)。

 で、お聞きしたいんですが、1978-1987年の時点で「うる星」があるのに、なんで「データベース消費」を第三世代オタクの特徴と位置づけて「九五年の切断」なんてものを持ってくるんですか?

 『うる星やつら』自体はワン・アンド・オンリーな超名作ですが、ハーレム漫画の形式は、様々な形で、受け継がれ、順調に発展してきましたた。藤島康介の「あぁっ女神様っ!」(1988〜)でも赤松健の「ラブひな」(1998〜)とそれに先行する「A・Iが止まらない!」(1994〜)から始まって、山のような作品群がある。

 そういう連鎖の末に、例えば「To Heart」や「でじこ」が位置するわけで。
 「エヴァが物語に引導を渡したから、データベースがでてきた」という考え方は、それこそ何の根拠もない。

 そもそも、こういうデータベース的な作品って、オタク系文化に限らないんじゃないすかね。例えば江戸時代の講談やら黄表紙本というのは、昔からある民間伝承……つまり、みんなが知ってる人気ヒーローを使った二次創作です。
 「南総里見八犬伝」は水滸伝をベースにしながら、他のいろんな日本、中国の伝承を節操なくパクってるし、『姥桜女清玄』では、男女キャラ入れ替え……つまり萌えキャラ化を行ってる。
 日本に限らず、「シャーロック・ホームズ」や「怪盗ルパン」だって、萌えキャラ+敵キャラの順列組み合わせだし、「ハーレクイーン・ロマンス」だってそうだろうし、一話完結・順列組み合わせのシチュエーション・コメディは、アメリカの伝統だ。

 既に、色々なところで指摘されているんですが……一話完結の終わりのない日常な世界に、萌え要素、燃え要素、受け要素、とにかく流行りのものを世界観とか無視して節操なくぶちこんで、それを順列組み合わせで延々と再生産するというのは、大衆娯楽の中じゃ、ものすごく普通の方法じゃないの?

 九五年以降がデータベース化で、それまでと断絶があったとしたら、それは具体的に、どんな点で、どこが違うんでしょう?

 また、昔から、データベース消費的な作品が多かったってことは、それは「大きな物語の失墜」とやらと無関係なんじゃないでしょうか?

 これに関する、納得のいく東氏の回答を、俺は聞いたことがないんです*1

*1:東氏の作品、発言の中で、これはというのがあったら、誰か教えてください