小さなオリジナリティ

 東は、二次創作のシミュラークル、非創作的なところばかり強調した結果、現実を無視した粗雑な割り切りをすることとなった。

 ここでは、逆の側面……すなわち、原作が持つオリジナリティ、二次創作が持つオリジナリティの方向を見てみよう。

 まず最初に述べておくが、俺は、世の中のより多くの人間が、自分の持つ創作意欲を物語の形にして表現できるようになったのは、非常に歓迎すべきことだと思う。

 何度も述べているように、二次創作者は、自分の作品を「原作と同じ価値を持つ別バージョン」としようとしているわけではない。なぜ、二次創作であるかといえば、それらが単純に、創作の初期において、補助の役割を果たすからだ。

 要するに、あなたが生まれて初めて物語を作り、それをできるだけ多くの人に読んでもらおうとする時、どうすれば一番うまくそうできるか、という話だ。

 たとえ、自分の中に、完成した世界観、キャラクター、物語が存在しているような人であっても、まず、それに興味をもってもらうことが大変だ。きちんとしたプロモーション、宣伝活動がなければ、質の良い作品とて、認知されることは難しい。

 そこにおいて、内容が一発で分かり、ある程度の客層を見込めるキャッチコピーとして、有名作品の二次創作というのは、非常に有利なスタート地点なのだ。

 多くの人は、それ以前に、完成した設定やキャラを作れる能力や技能がない。そこにおいて、完成した世界観やキャラクターを借りてきて、それを持って物語を動かすのが一番の早道だろう。*1

 あらゆる芸術と同じように、小説も、模倣から入る部分が大きい。「私も、こんな話を作ってみたい」という気持ちを、未熟なまま形にすれば、それは二次創作になるだろう。

 もちろん、あらゆる二次創作が、一次創作への踏み石だ、というつもりはない。

 ストーリー、キャラクターへの感動、気持ちを、そのまま形にし続けることを選ぶ人もいるだろう。

 また、売れ線のジャンルを狙って荒稼ぎをすること自体が目的の場合もあるだろう。こういうサークルも、一次創作には移行しない。

 そしてもちろん、既にオリジナルを世に問うている商業作家が、趣味と実益を兼ねて二次創作をすることもある。

 それらを踏まえた上で、やはり、そこには個々人の、その人なりの創作意欲、自分だけのオリジナルへの渇望が反映されているのであって、「オリジナルの別バージョン」への欲望だけで駆動されているものではないといえよう。

 作る側の動機はどうあれ、そうした作品が増えることで、オリジナルと二次創作の間が希薄になるか、といえば、そんなことはない。

 東が無視している前提だが、作品の価値……この場合、多くの人が金を出してもいいと思うこと……というのは、テーマやらオリジナリティやら、あるいは記号の集合やらというところではなく、それら全部をひっくるめた質の高さにある。

 そして、質の高い作品は、常に希なのだ。

 単純な話、二次創作の同人作品の中で、オリジナルに匹敵できる質のものを描ける人は、ほぼ存在しない。オリジナルに匹敵するものを作れる実力を持つ人は、二次創作で単なるオリジナルの別ストーリーを作ろうとはしない。

 ま、要するに、データベースを継承するだけでいい物、売れる物が作れたら、誰も苦労しねーよ、ということである。

*1:物語において、こういう創作は、それほど珍しいものではない。伝説とか、昔話とか。あるいは昔の講談など。誰もが知っている有名なキャラクターを前提に、それを少しずつ語り直すことによって、受け継がれ、進化していったお話の形態というのは、物を語るという伝統の中で非常に古いものである。