セカイと個人の間

人間関係と「世界の終わり」を短絡するというこの点で、新井素子はオタク的世界感覚をよく現していた小説家でした。そして九〇年代には、その短絡が全面化してしまっています。
郵便的不安たち#p65

 東(id:hazuma)の理論だと、九〇年代はポストモダン化したから、象徴界が衰退し、このような短絡が起きた、ということになる。

 どうして、もっと単純な説明を踏まえないのだろう?

  1. 人間は、大きな影響力を持つことを欲している。世界全体を動かせたら、あるいは世界全体を動かすイベントに関われたらいいな、というのは、一般的な欲望だろう。
  2. よって、特定個人が世界を動かそうという物語が作られる。
  3. 一方、社会に出る前の若者は、どうやって世界が動いているかを、よく知らない。
  4. 2、3より、若者が世界を動かす物語は、中間が抜けた、短絡したものとなる。

 7つの球を集めて願いを叶えようでもいいし、親から受け継いだスーパーロボットで、神にも悪魔にもなれる力を手に入れたっていい。
 若者と世界の危機は常に短絡しているのだ。

 逆に考えて、世界を良くしようとする物語で、一生懸命勉強して国連に入って、様々な勢力の調整をしながら、無数の書類仕事を通して、権利意識を高めてゆく……という作品は、なかなか中学生、高校生には受け入れられないだろう。どこかでディフォルメ=短絡しなければならない。

 その短絡の方法論は、もちろん、変化し続けている。

 その直接の原因は、オタク系文化における、演出の進歩である。結局のところ、娯楽はより強い刺激を求めてエスカレートする。

 最初は番長が喧嘩で日本統一をする物語だったかもしれない。それが進化/ディフォルメされれば、怪しげな格闘技同士の超絶な戦いとなる。そこから、怪しげな超能力を持つ敵との戦いは、もう一歩だ。
 こうしたディフォルメは、そうすることで、派手な画面を創ることができ、お話も創りやすくなる。
 超能力を持つ敵との戦いともなれば、その相手は日本の黒幕、世界の黒幕、宇宙の黒幕、人類の創造主、とかエスカレートしてゆくのは必然だろう。

 「サルまん」で茶化されていたが、こうした戦いは、最後、かならず、「神」とか「宇宙意志」との戦闘へ行き着く。「世界」を動かそうという欲望が根っこにあり、その「世界」というのは、もとから抽象概念なのだから、いずれ、そこに行き着くのは当然である。そのあたりで、単純な格闘マンガ文法は破綻する。抽象概念をパンチで倒すことはできないから。

 しかし、逆に考えれば、「神」とか「宇宙意志」とかの喧嘩を、娯楽的に描くことができれば、そこには需要がある、ということになる。

 その方法論は、ゆっくりと、色々なところから発祥してきた。

 筆者が思いつくのは、「ジョジョの奇妙な冒険」の第3部、スタンド登場以降である。スタンドというアイディアによって、「精神vs精神」、「情報vs情報」の戦いを、絵にすることができるようになった。以下、これは無数の作品に受け継がれる。

 もちろん、それまでの少年漫画だって、戦いの基本は「精神vs精神」「意志vs意志」なので、必殺技を打つ男の背後には、龍だの鳳凰だのペガサスだのが映っていたわけだが、それらのイメージを、イメージこそが実在だと開き直ることで、より細かな、可能性のある戦闘が行えるようになったわけだ。

 「ブギーポップ」も、そのスタンドの概念を受け継ぎ、小説という媒体を生かしてより抽象的な、概念戦闘を可能とした。

 いわゆる「セカイ系」というのは、そういう抽象的なものと、ドラマチックに対峙できる方法論が、ゆっくりと創られてきた結果ではないか、と考える。

 もちろん、そうした方法論が模索されはじめたこと自体が、社会のポストモダン化ではないか、とも言えよう。確かに、そういう側面もあるかもしれない。

 しかし、忘れてはいけない。「セカイ系」は、それほど広く流通している概念ではないのだ。

 結局のところ「キノの旅」のアニメは、WOWWOWどまりであったし、一方で「ワンピース」や「犬夜叉」は、全国ネットで活躍しているで受けてる。またマンガで売れてるのは「バガボンド」や「ミナミの帝王」だったりするわけだ。ライトノベルですら、本当に売れてるのは「オーフェン」や「フルメタル・パニック!」だったりする。

 閉じたセカイの中で短絡した関係に自閉している層は、実は、極めて小さいのだ。

 その小さな層を「オタク」と名付けることが良いかどうかは、さておく。問題は、東が、その小さな小さな層に代表させて、日本社会全体の行き着く先を語っているということだ。

 そうする根拠は、「ポストモダン化」のお題目だけである。つまり、彼が、哲学畑の人間だから、というだけだろう。
 つまるところ、自分の人間関係と「世界の終わり」とを、短絡して捉えてしまうのは、東本人の問題じゃないのか、と、疑問になるわけだ。