東の指摘する二つの点
映画やまんがやミステリーが人の死を記号的にしか描けないという限界を自覚した上で「現実」との関わりを模索しているのに対して、「ゲーム」や「ゲーム」を出発点とする「ゲームのような小説」はその努力がぼくには乏しいように思えてなりません。
「キャラクター小説の作り方」p143
以上は、大塚の本からの抜粋である。ここから東は、大塚の主張を以下のように要約する。
では、大塚のゲームに対する評価はなぜ低いのか。『キャラクター小説の作り方』の答えは単純明快である。日本のマンガ(そしてその影響下にあるアニメ)は、記号を用いて「死んだり傷ついたりする身体」を描くという逆説に取り組んできた。しかしゲームにはそのような試みは見られない。なぜなら、ゲームにおいては、キャラクターは何度でも生き返るからだ。リセットがある世界に死はありえない。したがって、このジャンルは、虚構を超えて現実に辿り着くことがない。
その上で、
この主張は、マンガやアニメにあれだけ繊細な視線を向けていた大塚にしては、あまりにも乱暴なように聞こえる。実際、これでは、ゲームばかりしていると人間の死に対して鈍感になる、といった巷でよく耳にするゲーム批判と変わらない。
とまとめる。
そして、ここで言うゲームとは、コンピュータRPGのことではなく、TRPGのことなのだ、と結論づける。
つまり、ここでは、東は二つの指摘をしている。
- 大塚は、ゲームおよびゲーム小説のジャンルを、「死を描けない」として批判しているということ。
- その批判は、コンピュータゲームではなくTRPGに対してである、ということ。
さて、この要約は、二つの点であやまっており、どうみても、大塚の意図と外れている。