ジャンルではなく、努力の問題だということ

 次に、もっと重要な問題。なぜ、大塚が、「努力が乏しい」という批判をしたかだ。

 今度は、引用された大塚の文の直後を見てみよう。

「ゲームのような死」の表現方法の先に、リアルな人の死(それはリアルな生の、裏返しでもあります)をいかに描きうるのかはやはり小説の一分野であるこのジャンルの作り手は考える必要があります。そういう努力を作り手が行うことで「まんがのせいで人を殺した」「ゲームのせいで人を殺した」という批判に対して毅然とした態度を初めて取れるのです。

 要するに、大塚は、「ゲームばかりしていると人間の死に対して鈍感になる、といった巷でよく耳にするゲーム批判」を問題にしているのである。
 そうした難癖は理不尽かもしれないが、しかし、確かにそういう一面もある。ジャンル作家がそれに無自覚であれば、批判を受けても仕方がない。それに対して、毅然とした態度を取れるような努力をすべきだ、ということである。
 極めて、まっとうで、賛成するかどうかは別として、首尾一貫した意見であろう。

 終わりに近い、第11講では、大塚は以下のように書いている。

 オウム真理教事件の時にも、それから「一四歳」や「一七歳」のいくつもの事件の時にも、常に事件の原因としてアニメやゲームが引き合いに出され、それが事件の本質や原因であるように語られてきました。
 だからこそぼくはここであなたたちにそれと同じお説教を繰り返すつもりはありません。そういう世の中の人々のぼくたちの時代のまんがやアニメに対する批判とぼくはぼくなりにずっと戦ってきたからです。けれども同時にあなたたちが誰かからそんなふうに今のアニメやゲームを批判されたからといって、あなたたちの代わりにそれを擁護してあげるつもりもありません。あなたたちがアニメやゲームや「スニーカー文庫のような小説」を大切に思うのなら、自分たちでそれらの批判に応えられるようにならなくてはいけません。
「キャラクター小説の作り方」p262

 ま、そういうことである。
 要するに、大塚は、ゲームおよびゲーム小説に根本的な欠点がある、と言う話をしているのではない。そうした欠点は、映画にもあったしマンガにもあった。その中で、映画や漫画は、長い歴史の間、批判と戦いながら評価を勝ち取ったわけだが、ライトノベルは、まだまだ、そうした歴史が薄いため、表現に自覚的になる「努力が乏しい」。
 それが悪いとか致命的だとかいうのではなく、「だから、頑張れ」という話である。

 大塚が、ゲームおよびゲーム小説のかかえる問題点を直接批判している、という東の主張は、まるで的はずれなことがわかるだろう。