はてなダイアリーってどうよ?

 今月のゲームラボの東(id:hazuma)の連載は、はてなダイアリーである。彼は、はてなが、「閉じられつつ外へ向かう」場である、と称揚している。

 その理由として、現在のはてなの規模は、サブグループを育む程度の大きさはありつつ、その中で情報が拡散せずに、綿密に行き来するくらいの規模がある絶妙なバランスのせいではないか、と述べている。

 はてなというシステムは、俺も、よくできていると思う。適度に閉じられ、適度に風通しの良いコミュニティは大切であり、はてなには、それを推進するシステムがある。

 ただし、東の意見に賛成する前に、こっちの文章を見てほしい。

 幾度も繰り返しているように、オタクたちは現実よりも虚構のほうに強いリアリティを感じ、そのコミュニケーションもまた大部分が情報交換で占められている。言い換えれば、彼らの社交性は、親族や地域共同体のような現実的な必然で支えられているのではなく、特定の情報への関心のみで支えられている。したがって彼らは、自分にとって有益な情報が得られるかぎりでは社交性を十分に発揮するのだが、同時に、そのコミュニケーションから離れる自由も常に留保している。(中略)この新たな社交性は、現実に基盤をもたず、ただ個人の自発性にのみ基づいている。したがって、そこでいくら競争や嫉妬や誹謗中傷のような人間的なコミュニケーションが展開されたとしても、それらは本質的にはまねごとであり、いつでも「降りる」ことが可能なものでしかないのだ。
動物化するポストモダン」p137

 東は、「動物化するポストモダン」の中で、オタクたちもオタクなりに社交的で、積極的な情報交換を行い欲望を持つことを認めた上で、以上のように述べた。

 見ればわかるが、これは「はてな」の現状にも、全くもって当てはまる。はてなのコミュニケーションは、大部分が情報交換だし、その基盤は、現実的な必然に支えられていない。有益な情報が得られる限りは社交的に振る舞うが、降りる自由は常に留保されている。

 東の理論によれば、はてなダイアリーで行われていることは、「本質的にはまねごと」であることになる。

 一方で、オタクコミュニティは現実に基盤がないからまねごとだと決めつけ、もう一方で、はてなのコミュニティは優れている、というのは、ダブルスタンダードというものだ。

 オタクコミュニティが現実に基盤を持ってないからまねごとだというなら、同じように基盤のない、はてなダイアリーのコミュニティが動物化している可能性についても考えるべきだろう。
 実際問題、東の日記にあるコメントは、たわいもないおしゃべりが、ほぼ全てを占めており、楽しそうだな、と思うものの、彼の言う「形骸化した社交」以上のものがあるとは思えない。
 まぁ東浩紀個人は、はてなを通じて得た人脈で、実のある仕事が来たかもしれないが、一方で、はてなコミュニティ全体について言えば、そんな人は少なく「形骸化した社交」が、ほとんどであろう。

 もちろん、それが悪いという話ではない。ただし、東のように、それが「動物化」である、という立場を取るならば、はてなコミュニティがタコツボを作る危険性について、きちんと考慮する必要があるだろう。

 一方で、現実に基盤を持たないはてなダイアリーの中であっても、興味の違うもの同士が出会うことで、有意義な場が作られる、というのであれば、オタクのコミュニティの中でも、そうしたことが起きていることを無視してはならない。現実に基盤がなくたって、面白いもの、面白い活動、面白い仕事、面白い生き甲斐が生まれることは無数にある。その評価を彼は欠いている。

 東は、「3000人程度のコミュニティが最適」という説を唱える時*1、「統計学や社会調査の裏付けがあるわけではないが」と断っている。

 統計学や社会調査において、もっとも重要なことは、人間は、数値の裏付けがない時、自分の信じたいことを信じやすい、ということだ。様々な調査手順は、そうした主観をどうやって避けるか、という心得でもある。
 データがなくてもできる大切なことは、自分の理論は、自分の都合のよいように取捨選択されてないか、自分の理論が間違っている可能性はないのかを、きちんと検証することだ。

 今回の東の論は、そうした検証を避け、自分に都合のいい結論を導いている、という点で、統計学、社会調査の、もっとも大切なことを理解していないと言えよう。

*1:くしくも3000人というのは、商売が成り立つ最低ラインの人数である。3000人の人間が、月2万も3万も買うことで成り立っている、コア/マニアックなオタク市場が、多数、存在する。エロゲやTCGなんかをハードに買うコアな層が、それくらいの人数だ。