読者の興味を引くということ
ここからは一方的かつ主観的な批判になるが、この一連の文章には、彼の欠点の一つが現れている。
ま、はっきり言うと、「読者が見えてない」というやつだ。
彼は、自分の書評の理論的な緻密さを追及するあまり(それ自体はいいことだ)、緻密でありさえすれば、皆が、それをありがたがってくれると思っている。読者の興味を引くことが求められている場面でも、自分の理論を語ることを優先したがる。ブックガイドと文芸評論の区別がつかないのだ。
よくできていることと興味を引くことは言うまでもなく別問題である。哲学、文芸批評における理論の緻密さなどは、一般人からすれば、まぁ、マッチ棒で作ったお城みたいなもので、「このお城、凄いだろ、作るのに3年かかったんだぜ」と言われても、「あぁそうですか」てなもんである。それだけで、いちいち金払って見に行くやつはいない。*1
マッチ棒でお城を造った人は、誰でも、自分の努力を自慢したい。皆が皆、自分の城を敬うべきだ、と、思いたくなる。でもまぁ、そうはいかない。*2
だってマッチ棒のお城って世の中に、たくさんあるのだもの。皆が皆、自分のお城を宣伝していて、それを片っ端から回ろうとしたら、それだけで人生が終わってしまう。
マッチ棒のお城に広く人を呼ぼうと思ったら、自分がいかに苦労したか、とか、お城が、いかに良くできているか、を語ってもしょうがない。それで共感して来てくれるのは、マッチ棒建築オタクだけである
マッチ棒建築オタクを呼びたいならそれで問題ないのだけど、もっと広い層に訴えたいなら、「自分がどう思うか」でなく「相手がどう感じるか」に立たなければならない。色々な客のニーズにあわせて、なぜ、その人が、マッチ棒の城を見る意味があるのか、を、喧伝することだ。
「動物化するポストモダン」の議論で、絞りきれてないのが、そこだ。
東氏には「動物化する社会」について、人に伝えよう、なんとかしようという問題意識があるのだと思う。だから、オタクという題材を選んだわけだ。
一方で、彼は、「ポストモダン」や「スノビズム」に関する緻密な議論が、緻密であるがゆえに、そのまま一般人にも通用すると思っている。彼の対象とする読者にとって、コジェーブのスノビズムが云々というのは、マッチ棒建築におけるマッチの銘柄くらいにしか興味を引かないことが分かっていない。
マッチ棒建築術におけるマッチの銘柄をするな、というわけじゃない。一般人からすれば、どのマッチでも良さそうなところに「いやいや、N社のマッチは工作精度が高いのですよ。その理由ですけど、ここの会社は元々〜」とか語ってもらえれば、十分に面白い話になりうる。それと同じように、コジェーブやポストモダンが、「なぜ重要か」という議論を尽くした上に紹介するのは問題ない。
問題なのは、「動物化するポストモダン」の議論においては「ポストモダン」やら「スノビズム」やらが、重要な論拠として大した検証もなく、天下りに使われていることだ。
多分、戦略としては、「動物化」を身近に感じさせつつ、バックボーンとして存在する「ポストモダン化」の重厚な思想に興味を持たせよう、ということなのだろうが、それはまぁ、無理である。
実際には妙なテツガク村の符丁を出すことで読者は「動物化」を自分に身近な問題として考えなくなるし、そうした符丁にも興味を引かれることは、あるまい。
彼は、読者の興味を引くためにすべきである努力の量を完全に見積もり損なっている。マッチ棒の銘柄で、人を魅きつける話をするのが、どれだけ大変なことか。そうするためには、ものすごく丁寧で面白い文章を書かなければいけないのに、単にキーワードを散らしておけば、引っかかると思っている。
……あ、それは、「動物化するポストモダン」の結論か。なるほど。