マトリックスってどうよ?

 今回は内容には、それほど反対がない。「マトリックス解説の仕事受けちゃったけど、そういやこの号が出るころにはレボリューションが公開されてるんだよな。まずったなぁ、まだ見てないから結論、書けねーよ」という言い訳に紙面の大半を使うのは、どうかと思うけれども。

 「マトリックス」の魅力の一つは、見る人がテツガク的なコリクツをこねたくなること……解釈の欲望をかきたてることにある、という東氏の観点には私も賛成するところである。

 では、その欲望の源はどこか?
 ここで東氏(id:hazuma)は、その分析方法として、「社会学的な手法」「精神分析的な手法」「作品論的な手法」の3つを出し、次号では「作品論的な手法による分析を行うと明言している。

 社会学的な手法、精神分析的な手法の問題点は、それら単独では、ジャンルの説明になっても作品の説明としては弱いということだ。

 例えば、社会学的に、「この時代には、こんな社会不安があるから、それを反映したこのジャンルが流行った」というのは言えるかもしれないが、なら、そのジャンルのフォーマットに乗った作品全部が受けるわけではない。売れるものもあれば売れないものもある。
 それは当然で、「作画が良かった」とか「演技が素晴らしい」といったディティールの議論をすっ飛ばせば、作品の差がジャンル以外になくなってしまう。

 なぜ、マトリックスが、かくも解釈の欲望を刺激するのか、という問題に真摯に応えるには、作品のディティールと歴史を踏まえた、作品論的な手法が不可欠であろう。

 ある意味、娯楽作品というのは、欲望を刺激する技術の結晶である。そして、技術というのは、時間と共に進歩するものである。解釈の欲望も、その例外ではない。

 様々な作品群は、全体としては、過去の作品の技術を継承し、それを改良しながら、前に進み続ける。もちろん、その中で、失われた技術や、突然変異的に現れる技術も存在する。

 作品論を語る、というのは、そうした技術の系譜について考察する、ということである。

 解釈の欲望というのは、結構、人間の本性に根ざした欲望の一つなので、考え方次第でいくらでも遡れるわけだが……イコノロジーとか古今伝授とかまで遡る技量は筆者にはないので、オタク系に限るとしよう。

 SFのメタ宇宙物/ヴァーチャルリアリティ系なら、「フェッセンデンの宇宙」、「発狂した宇宙」、ディックの全部、「クラインの壺」(岡嶋 二人)等々がある。

 推理小説なら、「ドグラ・マグラ」「虚無への供物」「黒死館殺人事件」から「箱の中の失楽」「ウロボロス偽書」等々の、メタで自己言及な作品群がある。

 現実否定、精神世界肯定のカルトっぽい人気なら、エヴァは当然として、「幻魔大戦」をはじめとする一時期の平井和正なんかがあるだろう。「僕の地球を守って」なんかにもつながる前世の戦士ブームもあった。

 こうした作品群が編み出した様々な技術の、直接、間接の影響の上に、マトリックスは成立しているわけだ。