作品論的批判?

 さて、文章を読んでの感想だが、問題は、それらが、なぜ、「解釈の欲望を駆り立てる」のかが説明されていない点だ。

 映像批判がされていると、解釈したくなるの?
 消費社会批判がされていると、解釈したくなるの?
 したくなるとしたら、どうして?
 どんな人が、どんな解釈をするの?

 これらの当然の疑問が抜け落ちている。

 映像批判に関しては、俺は、それ自体が「解釈の欲望を駆り立てる」とは思わない。CG映像等の使い方が、解釈の欲望と直結しうるのは当然だが、映像批判=解釈の欲望を煽る、とは成り得ない。
 攻殻SACの「笑い男」のように、うまく、ストーリーと絡めた箇所については、解釈の欲望を増すことができるだろう。マトリックスにおいても、そうした箇所はあるだろうが、東は説明していない。

 東は「リローデッド」以降で、1作目はネタとして使っていた派手なCGが、ベタになったのが批評性を失った、と言っているが、これはそんな妙な言葉遣いをしないでも、もっと、簡単に説明できるだろう。
 即ち、一作目では、「確固たる現実」に徐々に虚構が侵入してくる、という形でCGが使われていたので緊張感があった。
 一応の現実が存在し、その中で、ありえない事件が起き、それが、徐々に広がっていくところに興奮があった。
 二作目以降は、設定上ネオが超人なので、最初から最後まで、スーパーパワーと派手なアクションが垂れ流されることで、メリハリがなく、緊張感が欠けてしまった。
 それだけのことだ。

 もう一つの「消費社会批判」は、東本人が先月言っていたところの「社会学的な手法」に過ぎない。我々が消費社会に抱いている虚構な感覚を映画が実現したからヒットした、というのは、よく考えれば、何の説明にもなっていない。

 また、「現実=虚構」を扱ったメタなSF映画は、たくさんあるが、「現実の風景に虚構性を見出す」ことは、そのほとんどの映画でやっていることだ。作品論的に言えば、それ自体は平凡で一般的な手法なのである。
 例えば、東が上げた「トゥルーマン・ショー」。映画の舞台にアメリ中流階級のサバービアの生活が選ばれたのは、それがアメリカ人にとってのリアリティと虚構性を満たしたイメージだったからに他ならない。
 ディックの諸作品を見れば、これが、一般的な手法であることは容易にわかるだろう。

 「マトリックス」が優れている点を分析するなら、そのレベルの社会学的な手法ではなく、もう一歩、踏み込んで、その選んだ舞台を生かすために、「マトリックス」が、どのような手段を踏んだ、かを分析しなければならないだろう。

 確かに「マトリックス」のテーマと舞台と派手なCGは、良い組み合わせである。
 だが、この組み合わせを渡しても、センスのないやつが映画を撮ったら、つまらん映画にしかならない。逆に言えば、「マトリックス」が面白いとしたら、様々なカット、個々のセリフ、タイミングの全てに、技術とセンスが詰まっていたからだろう。
 そこを、チェックしなければ、作品論的な批評としては意味がない。