シミュラークルと埋没/同人誌

 次は、同人誌を中心とする二次創作の場合である。

 同人誌やSSやらの、二次創作の90%は、「ディフォルメをほどこしたキャラ」による「日常の一コマ」的な外伝である、と言っていいだろう。たいていのパロディは言うに及ばず、広い意味ではエロもそうだし、やおいも、そう。どちらも、定番のディフォルメを施したキャラによる、日常の一コマである。

 ストーリーの中から、キャラや設定をとりだして、並び替えることで、「あったかもしれない1コマ」を作るのを、「萌えのデータベース消費」と見る、東の視点は慧眼である。
 慧眼なのだが、それによってオリジナルが埋没して大きな物語が不可能になって……と続くのは、ちょっと待ってほしい。同人誌における「オリジナル」の位置、というのは、微妙なものがあるのだ。

 まず、もし東の言うように、シミュラークルが、原作と等価な価値を求めるのであれば、絵であれば「絵が原作そっくりな人」が、もてはやされそうなものだ。ストーリーならば「原作のストーリーを置き換える、等価なストーリー」が作られそうなものだ。

 実際には、その両方とも存在しない。

 絵が原作に似てるかどうかは、必ずしも評価の対象にならない。
 というか、人気になるほどのサークルの場合、その絵師自体に客がつく。絵師の絵柄を求めて客は来るのである。東は「オリジナルの絵を吸い出して再利用したノベルゲーム」を挙げていたが、実際に、それで大きな人気を得た作品は、存在しない。

 ストーリーについては、前に書いた通り「日常の一コマ」がほとんどである。
 つまり、オリジナルの長いストーリーのどこかに「あったかもしれない」ものである。オリジナルのバッドエンドをハッピーにしたり、死んだキャラを死ななかったことにしたり、というような真っ向改変は、多くの場合、忌避される。

 最後にオリジナルとの距離の取り方。
 エロであれ、やおいであれ、原作から大きく離れてるという自覚のある層は、オリジナルに対して非常に微妙な意識を持っている。「作者の人は不快かもしれません。すいません。でも裏のほうでこっそりやらせてください」というような意識が確実に存在する。

 例えば、非エロ、非やおいのオリジナルが、あからさまにエロっぽく、やおいっぽくなった場合があったとしよう。もしも、オリジナルというのが、二次創作のデータベースのネタに過ぎず、皆がオリジナルを無視して自分の好きな形で消費しているというのなら、オリジナルが自分の好きなほうに近づくのは大歓迎のはずだ。
 でも、そうじゃない。そうした二次創作者は、多くの場合、文句を言う。やめてくれ、と。

 オリジナルが大きな物語として存在しているからこそ、端っこのほうを外伝やら補完やらといった形で安心して埋められる、という意識がそこにある。多くの二次創作家は、「オリジナルの取り分」と「自分たちの取り分」を意識しており、領域侵犯が起きると、不快に感じる。それは、「オリジナル」が、二次創作の範疇に侵入してきた時もそうだし、オリジナルの範疇を侵すような二次創作作品についても、そうである。

 結局のところ、同人市場で重要なのはコミュニティである。そこにおいてオリジナルは共通言語として存在する。共通言語あってのコミュニティなので、それは破壊されたりしない。は同人作品がどれだけ増えても「シミュラークルに埋没」したりしない。それらはオリジナルを強化する、とさえいえる。
 また、オリジナルと同じ土俵に立つようなネタは、即刻オリジナルと比較されるので、作家の器量がものすごく要求され、結果として、そんな怖いものを作らない、というのもあるだろう。

 「大きな物語」が確固として存在し、その中でキャラが描かれたからこそ、そこに感情移入が生まれる。それに基づいて作られた二次創作は、オリジナルの下に位置づけられ、脅かす方向には、なかなかいかない。