大衆娯楽の構造

下の長いコメント欄から適当にまとめ。まぁ当たり前のことなのですが、ファウストさんや、もしかしたら東さんと、この当たり前のことが共有できていないような気がするので。

大衆娯楽において、全部見てよく考えないとわからないものは、受けません。
つまり短いところだけパっと見て、あっと思うほうが広まりやすい。マニアじゃない人は単純な刺激を喜ぶものだし、また宣伝や口コミで広める時も、「ここがすごいんだ」というのを、一瞬でわからせないといけませんから。

「全部見て、よく考えるとすごく面白い」というのも、もちろんセールスポイントにはなるのですが、そのためには全部見て、よく考えてもらわないといけない。

よって、大衆娯楽は、部分部分で消費できる構造を持つことが、要請されます。

部分部分で消費できて、かつ、全体として見た時に価値のあるものが望ましいのは確かです。しかし、それにはコストがかかります(計画性=期間、才能、労力etc)。また、常にうまくいくとは限りません。

よって、ローリスクローリターンを基本とする市場の場合、「部分部分が面白くて、全体が破綻してたり、たいしたことがなかったりする作品」が多く作られることになります。わかりやすく言うと、アレですな。金の亡者みたいな編集がいて、「おまえのテーマなんか誰も見向きもしないんだよ! もっとここは女のハダカいれろよ、ハダカ!」と言ってるようなパターンです。それが望ましい、という話ではなく、そういう方向の作品を作る圧力は昔からある、ということです。

ファウスト氏および東氏は、それがポストモダンの特徴だと言う。それは間違いです。

それは、大衆娯楽と市場の圧力がある限り、どこにでも存在します。プレモダンの時代にもあったでしょう。一般的に近代とされる時代にもあったでしょう。無論、現代にもあります。

ファウスト氏および東氏は、アニメの場合、それがエヴァンゲリオン以降に起きたという。それは間違いです。

それはごく初期のアニメからありました。

確かにエヴァ以降、安直に美少女を散らした萌えアニメが量産されてるように見える現象があります。しかし、これは、「美少女」という消費要素が発見されたのに加え、アニメ市場の縮小と細分化のせいで、ローリスクローリターンのアニメとして作られているからです。

アニメ市場の縮小、細分化自体をポストモダンの結果と見るのなら別ですが、エヴァという作品それ自体が物語性を否定したがゆえに萌えアニメがでてきた、という解釈は、大変に的はずれです。なぜなら「萌え」という記号を「ロボ」やら何やらに変えることで、それは何度も繰り返し起きた現象だからです。