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前半は、昔話と業界のグチ。まぁ皆さん苦労してるんですね、という感じである。
リベラリズムとリバタリアニズムの話に踏み込むも、「リベラリズムは大切だと思うんだけど、現実を前にすると説得力がないんだよね。どうしようか?」というところ。頑張ってください。
後半、キットラーの話題となる。
東:キットラーの問題提起で重要なのは、19世紀後半に「リアルなものを直接書き込むメディア」、すなわちグラモフォンが登場し、それこそがラカンの三界図式(現実界、象徴界、想像界の区分)を可能にしたという指摘ですね。
ラカンの三界図式とは、ラカンの考える心の仕組みで、おおざっぱにいえば以下のようなものである。
まず「現実界」がある。これ自体は人間は認識できない。
人間が現実を受けとる時は、「想像界」、つまりイメージとして受け取る。
例えば、我々が音楽を聴く時、WAVデータのギザギザ波形のレベルで理解しているわけではない。漠然としたイメージとして受け取っているわけだ。
漠然としたイメージを人間が意識的に把握しようとする時、言語、象徴が生まれる。空気の密度の連なりは、最終的に「悲しい音楽」という言葉になる。それが象徴界である。
キットラーは、グラモフォン・フィルム・タイプライターにおいて、その3つが、それぞれ、現実界、想像界、象徴界に対応する、と主張した。
つまり、音の波形そのものを記録するグラモフォンは、「現実界」で、言語に還元されないイメージそのものを与える映画は、「想像界」で、言語そのものを表現するタイプライターが「象徴界」というわけだ。
さて。
ラカンは一応、心理学者であり、その心理モデルは、現実の精神病患者を説明し、治療するためのものであった。ただ、その観点からすると、ラカンは成功したとは言い難い。治療実績はないし、ぶっちゃけ医者としてはトンデモである。つまり、根拠はなく、思いつきの言いっぱなしに等しい。
今回で言うなら、「グラモフォン・フィルム・タイプライター」を三界に対応させるとして、だから何? という話だ。
そのへんを切り分けて、「言ってることが面白い」というレベルで受け取るのは問題ないが、哲学界隈でラカンが引用される時は、妙な権威付けとして使用されることが多い。
さて、議論に戻ってみよう。
ラカンに言わせれば人間の精神は最初から三界構造を持ってるわけだが、キットラーに言わせると、グラモフォン・フィルム・タイプライターというメディアが揃ったことが、人間の精神を、そのように変えてきた、ということになる。
東の意見では、キットラーの述べた三界が揃う二十世紀は過渡的な事象であり、現在では、無機的な記録を可能にするコンピュータ=現実界と、様々なメディアの創作物=想像界だけが直接つながり、象徴界が衰弱している、らしい。
東の言うように、文字だけしかメディアがなかった18世紀と、21世紀の現代では、思想・表現を支える条件が全く違うことは言うまでもない。
ただ、ここでの問題は、言ってることだけ希有壮大で、具体的な結論が何もでないことだ。ラカンとか三界とか仰々しい用語を取っ払えば、東の言ってることは、「今の若者は、漫画やアニメを、イメージとして、ぼーっと受け取るだけで、自分で考えようとせん!」ということだし、それは単なるジジイ説教に過ぎない。
果たして本当に、象徴界は衰弱しているのだろうか? そこにメディアとの関連性は、どれだけあるのだろうか? あるとしたら、どのように証明でき、また、どのように影響を変えられるのだろうか?
そういう展望が、どうにも見あたらないのだ。
北田:では、RとIしかないものに純化されていくメディア環境のなかで、なおかつ人文学的な語りでその世界を説明していく欲望は、どうなるんでしょうか。たんなる時代遅れなのか、それとも現下のメディア環境と何らかの相関を持った「必然的な」ものなのか。
東:難しいですね。僕自身について言えば、その点はけっこうシンプルに諦めています(笑)。いまさらアニメやゲームを作るわけにもいかないし、ああ、僕は消え行く知的伝統を背負って生きているのだなあ、と……(笑)。
(笑)とは言ってるけど、あまりシャレにならない。
東という人は、要するに「バカが人文科学に見向きもしない中で、俺様だけは知的に言説を紡ぐのだ。あぁ俺って悲劇的」と考えてるように見えるからだ。「象徴界が衰弱して……」というのも、「俺様だけは無縁だけどね」ということだとすると問題だ。
前編最後のセリフは以下。
東:それはそれで正しいと思う。けれども、やはり別の面もあるはずだろう。では、近代的な人間像を挟みうつものとして考えられている二つの身体性、ポストモダンの動物性と前近代の動物性のあいだには、いったいどういう差異があるのか。この点を整理しないと、ネットを扱うにしてもオタクを扱うにしても、「日本はそもそも近代が弱いから」的なステレオタイプを逃れられない感じがするんですよ。
まったくその通りで100%同意する。
私は、東の言うポストモダンの動物性は、単なる前近代的な様式と何が違うのか、というのが、ずっと知りたくてたまらないのだ。