ベタな感動

 「感動」が動員要素になっているという点について、北田は、以下のように書く。

北田:(前略)そういう流れが、弁証法的に必然的な歴史性をもっているかはわかりませんが、1990年代後半からバーっと見られるようになる。2ちゃんねるでも広告というか動員の論理として、「感動」が一つの掛金になっていく。もちろん、それは素朴な人文学的な意味での「人間」が復活したり再興されているわけではない。振る舞いだけ見ているとむしろ動物的に「感動」に依存している。つまり、形式において動物でありながら「人間」であることを過剰に欲し続けている。お祭りや感動を求めて集まってくる動物的な形式によって「自分たちは人間なんだ」という自意識を再生産・消費しているわけですよね。

 まず、基本的なツッコミ。人間らしさと言われて、「人文学的な意味での人間」と短絡するのは、学者バカだけだ。

 少なくとも日本において、日常会話で「人間らしい」と言う時は、それは「近代人としての自意識を持つ」とか、そういう意味ではない。それは「他人の気持ちがわかる」とか「人情にあふれる」とか、そういった意味である。つまり、「人間らしさ」というのは、イコール「情緒的な刺激に反応する」ことなのだ。

 よって、「お祭りや感動」に動物的に群がることと「自分たちは人間なんだ」という自意識を再生産することには、何一つ矛盾はない。逆に言えば、人々が「自分が人間らしい」と思う時、「自分は近代的自我を備えている」と勘違いしてるわけでもない。

 そして、「人間らしさ=情緒的反応」の等式は、「90年代後半」に始まったことでもない。泣かせて思考停止するドラマは、遙か昔から存在してるし、これからもずっと存在し続けるだろう。

 例によって東は、これがポストモダン社会の帰結だという。

東:(前略)なぜそうなったかといえば、僕たちが生きているこの社会が、そもそもあまりにメタメタで(笑)、「これが面白い」と言ったところで「別の視線もあるでしょう」という多数の反論可能性に満ちているからです。だからこそ、そういうノイズをシャットアウトしてくれるものを求めざるをえなくなっている。そこで台頭するのが「感動」だと思います。

 逆に言うと、昔の人は近代的自我と絶対的価値観を備えていたから、作品自体を様々な角度から鑑賞しつつもメタ議論に陥らず、感動だけのメロドラマを軽蔑し、深い芸術性をありがたがっていた、とでも言いたいのだろうか?

 どうも、この人たちの頭の中には、「近代」というのが実体として存在してるようだ。
 山のあなたの空遠く、近代人が住む近代の国がありまして、そこに住む人は、みんな近代的自我を備えていました、という。

 言うまでもなく、そんな国はどこにもない。
 ポストモダン以前だろうが以後だろうが、人間は感動することが好きだし、感動をもたらす刺激に群がる。その中で、知識人を気取る層は下世話な作品を軽蔑するそぶりを見せるかもしれないが、メロドラマに類するものは、常に大きな人気があった。

 90年代の日本が80年代の日本に比べて、本当に、より多くの感動を求めるようになったのだろうか? 俺にはそうとは思えない。*1
 そのへんは、「気分」ではなく「実証」で語るべきじゃないかと思う。

*1:24時間テレビ 「愛は地球を救う」は、78年からやってる。