これまでにあがったファウストさんの言説をまとめてみる。

 まず、基本的な理屈として、

ポストモダンになると「物語の超越性」が失われる。
・それによってストーリーが完結しても、それを無視して、要素(キャラ)が一人歩きし、無数のシミュラークルが作られるようになる。
ポストモダンはアニメなら「エヴァンゲリオン」の頃に完成した。

 というものだ。
 その根拠としてあげたのが、以下の事実。

遊戯王ポケモンは、90年代後半に大ヒットした。
・FFシリーズやDQVを見てわかるとおり、物語性は凋落している。
・FFX2が作られたのは、物語性凋落の証。

 これらについては、単純な反証を挙げることができる。

 ファウストさんは、「DQV」が「モンスター集め」の要素があるから、「物語性の凋落だ」と愉快なことをおっしゃるが、そもそもコンピュータRPGというのは、「ストーリー」と「システム」の二本柱で動いているもので、システム部分がないRPGは存在しない(それは普通アドベンチャーゲームと呼ばれる)。

 RPGの中には、大目的(世界を救うとか)がしっかり存在して、そこに至る道が一本道であるRPGと、一応エンディングはあっても、途中の道筋が自由であるものの二種類が存在する。

 たとえば、よくある「盲導犬RPG」のように、マップを移動する道順が厳密に決まっており、あらかじめ性格付けのされた登場キャラがイベントによって入れ替わったりしつつ、ストーリーを進めるようなゲームは、前者。
 海外RPGみたいに、超巨大なマップにクエストが点在しており、どこから進めてもよい、というようなRPGは後者に分類されるだろう。

 通常、物語性が強い、というのは、前者のようなRPGを言う。そして、現在に至るまでの日本の大作RPGは、おおむね前者の一本道RPGへの流れを強めてきた。

 もちろん、媒体の進化によってボリュームが増すことで、ストーリーとともにシステム面も充実する。育成やコレクションに代表される「やりこみ」部分も、時間とともに進歩してきた。だけど、それを「ポストモダンにおける物語性の凋落」と呼ぶのは無理がある。

 ファウストさんの論だと「ポストモダン以前の昔のユーザーは、RPGをプレイしてもストーリー以上のやりこみを好まなかったが、今のユーザーは好む」ということになる。そんなことはない。
 ストーリーと関係なく、レベルをあげたりアイテムコンプしたりする「やりこみ」は、RPGの発売当初から存在したし、ゲームが、それにこたえるべく進化しただけに過ぎない。

 さて、ポケモンは、久しぶりに後者の路線を選んでヒットしたRPGである。
 マップの移動路なんかは、結構厳しく決まっているが、基本的に大きな目的の縛りはそれほど強くなく、小クエスト(ポケモンゲット)をしていくだけのRPGだからだ。
 ポケモンみたいなRPGが主流になる流れがあれば、「物語性の凋落」にも説得力がある。

 ただ、それも、無理がある。
 まず、「ポケモンみたいなRPG」は、別にポケモンがはじめてでないこと。「ウィザードリィ1〜3」シリーズは、大きな目的に縛られず、キャラ育成、アイテム集めの要素がゲームの本体だった。

 また、ポケモン系のRPGは、一時の流行で流行ったが、結局のところ、ほとんどは生き残らなかった。ポケモン自体の人気も、沈静化の方向に向かっている。

 FFX2が作られたから「物語性の凋落」というのは、もっと無茶苦茶だ。
 キャラを流用した続編は、始終、作られているが、それらが全部、「ポストモダン」だというなら、ゲーム界は最初っからポストモダンだ。

 ほかのジャンルに目を転じてみれば、人気キャラを流用して際限なくシミュラークルが作られる構造は、おなじみのものである。
 「高倉健」のヤクザ映画が、役名と設定だけ違っても、同じパターンが繰り返されるように。「ゴジラ」の設定が、どんどん子供向きになっていったように。原典を無視した二次商品として「ウルトラマンキッズ」や「SDガンダム」が作られたように。

 で、「ゴジラ」は、「アメリカ的動物文化」で、「SDガンダム」は「子供向け化」だからポストモダンではないそうだ。いやまぁ、例外規則を好きなように作っていけば、何でも証明できるだろうけどね。