まずは路線変更について。
 当初は、作品論、状況論でアクチュアルな状況を語る予定だったのだが、そっちは波状言論のほかの記事で満たされてるので、こっちでは抽象的な議論をする方向に向かってきたこと。今後、その方向で書くのだそうだ。

 抽象議論はいいんだけど、足元に気を配らないと、独断的な俺理論になりやすいんだよね。特に社会学とかの分野だと。きちんとした作品論、状況論と抽象論を、絡めて書けばいいと思うのだけど。

 ともあれ、今月は仕切りなおし。議論のパートは、実質進んでいない。内容は、以下のとおり。

ラカンの頃は、映画が主要なメディアで、よって、ラカン派を含む「心」のイメージが、「映画的」だった。
・現在は、コンピュータが主要なメディアで、よって、「心」のイメージが「サイバースペース」に移ってきたのではない。
 続きは2週間後に。

 ということらしい。

 これに対する疑問は、前回書いたことに尽きる。

ラカン思想は、当時、それほど一般的だったのか?
・「心」「哲学すること」と映画の親和性は、それほど一般的だったのか?

 ラカン思想の一般性については、東は所与のものとして受け止めているようだ。また「ジジェクキットラー蓮實重彦松浦寿輝」が、それぞれ映画に興味を持ち、重視していることが、映画と心的イメージの一般性の証のようだ。

 東は以下のように書く。

 映画を観ることと哲学することは似ている、とだれかがどこかで書いていたような記憶があるが、こういう台詞を前にしたとき、「うまく言うもんだなあ」と納得するのも間抜けなら、「なんだ適当なこと言いやがって」と反発するのも愚かである。そういう言説の流通がパフォーマティヴに意味するのは、とりあえずは、ついこのあいだまで、「映画を観ることと哲学することが似ていると思われるような時代」が存在していたという端的な事実だ。命題そのもののコンスタティヴな真偽は横において、そのパフォーマティヴな事実性から出発するのが、哲学的あるいは批評的思考というものである。

 「映画を観ることと哲学することは似ている」という言説って、そんなに大きく流通してたの? 本当に、ついこのあいだまで「映画を観ることと哲学することが似ていると思われるような時代」が存在してたの? あるいは「小説を読むことと哲学することは似ている」という言説も、当然、どこかにはあるだろうけど、それに比べてどうだったの?

 つまり、すごく単純な疑問なんだけど、それって単なる現代思想界隈だけの閉じた認識なんじゃないの?
 ほとんどの人は「ラカン? 何それ?」なわけだけど、それで天下国家社会全体を説明できるほど、ラカンとか、映画=ラカン的心というイメージは一般的なの?
 つまり、映画が流行ったから、それにかこつけて、現代思想の人が人間の心を語ってみただけで、結局、そのイメージは、流通しなかったんじゃないの?
 たとえば俗流フロイト俗流ユングに比べて、「象徴界」とか「鏡像段階」は全然流行らなかったイメージがあるわけだけど。映画哲学も。

 「パフォーマティヴな事実性」から出発しちゃう前に、「これって本当にパフォーマティヴな事実なの?」「どれだけの影響を持ったとき、それは事実性と言えるの?」というのを、きちんと押さえるのは学問的思考だと思うんだけど、「哲学的あるいは批評的思考」に、それは入らないのかな?