ちなみに前半は、東的なポストモダン史観のまとめ。ベタとネタの乖離など。
 これまでの東の理論がまとめられている。

 ポストモダンな社会とは、単一の価値観がなくなって、複数の価値観が混在する世界である。
 よって、そこに住む人間は、単一のリアリティ、価値観を失い、メタ視するようになる。

 そこにおいて人々は、

A.自分の私生活と、公的な道徳、社会との結びつきに、疑問を投げかける。端的に言えば、2ちゃんに見られるように、公的なものは、すべてネタとして扱うようになる。
B.信じる基盤を持たずに、何もかもメタ視していくのは疲れるので、ベタな快感原則の世界に逃げ込む。

 Aより、仮想現実を描いた作品、すなわち、現実の不安定さを描いた作品が登場する。それは例えばP.K.ディックの諸作品や、「マトリックス」等である。

 Bより、、人工的に作られた「お約束」の記号的世界に耽溺する。この時、そうした記号的世界が、あくまで「非現実的」であることを認識し、むしろ「非現実的」だからこそ、安心する態度が生まれる。いわゆる萌えゲー、泣きゲーなどである。

 さてさてさて。
 理論としては美しいわけだが、内容に意味があるかというと別だ。

 一番の問題は、これらの議論が反証可能性を踏まえているかどうかだ。

 最初の疑問は、「AでもBでもないやつって、どんなやつ?」ということに尽きる。
 Bのように快感原理に溺れることを否定し、快感を快感として味わいつつ、公を意識した意味のある生き方を心がける。一方で、Aのように批判のための批判に堕さず、自分の信念を持ちながら、きちんと批判すべきところを批判する人間だ。

 えーと。

 そんな完璧超人は、そうそういないと思うんですが。少なくとも、社会の大部を占めたことはない、と、断言できる。

 人間というのは基本的に、ベタな快感原則の世界に逃げ込みつつ、好き勝手に公的なものをネタとしてあげつらって、茶化して、脱臼して喜ぶもんじゃないの? で、都合のいい時だけ、公に頼るんじゃないの? それって今に始まったことじゃないんじゃないの?

 世の中のほとんどはAとBでできている。故に、東が「Aのような人間/行為はポストモダンだ」「Bのような人間/行為はポストモダンだ」という時、それは万能の言い訳になりうる。けれど、それは本当にポストモダン特有なのか、というところに帰着する。

 さて、A、Bという態度自体は、ポストモダン的でないことを説明した。ポストモダン特有のものがあるとしたら、A、Bの態度が先鋭化した場合だろう。

 先鋭化したAとは、単に思想的に反発するのではなく、どこまでも公的なものに対する結びつきを拒否し、それと同時に、非現実的なものを非現実的なものであるが故に珍重するような態度だ。

 私は、そうなっているとは思わない。
 アイロニカルに、どこまでも「公的なもの」との結びつきをメタ視し、右も左も何もかも否定し続けるような態度は、実は、ほとんど存在しない。東も理解するように、それは大変に疲れるものだからだ。
 一人の2ちゃんねらーが公的なものを茶化す時、その背後には、驚くほどナイーブな信念がある。その証拠の一つとして、彼らは自分の気にくわないことの責任は、みんな公に対処を求める。その程度には公を信じているのだ。例のコメント事件ではないが、「国が未成年の外出を監視すべきだ」という態度は、一般的なのだ。

 先鋭化したBもそう。「快感原則で作られた工業的な世界/物語のその虚構性を知りつつ、虚構であるが故に耽溺する」みたいな面倒な悩みを抱えている人が、そうそう多いかというと、これまた疑問だ。フツーに虚構を消費してるでしょ。

 結局のところ、東が取り出して見せている状況が、ポストモダン特有か、というと、非常に疑問が残る。

 同じことは、作品群にもいえる。
 大衆文化において、「AでもBでもない」作品というのは、どんな作品か? ということだ。
 そもそも、大衆娯楽は、ベタな快感原則に基づいており、それ自体は、ずっと昔からあるのは、これまた同じ。
 単なる快感原則を超えたものを描くというのは、どういうことか?
 信念とか理想とかも、物語の世界では快感原則に基づいた消費が可能になる。「プロジェクトX」を見て泣くことは、公共への責任を引き受ける態度とは、ほとんど関係がないといってもいい。

 一方で、メタな作品というのは、これはもう、単なるジャンルだと思う。「イデア論」でも「胡蝶の夢」でもいいが、現実の不安定さは、昔から魅力的なストーリーの一つとしてベタに消費されてきた。「マトリックス」は売れたわけだが、それが時代性を本当に反映しているかは、議論の余地がある。なにせ「ロード・オブ・ザ・リング」や「スターウォーズ」も同時期に消費されているわけだ。

 もし「マトリックス」と「ロード・オブ・ザ・リング」が同時にあることが、メタとベタの解離だ、というなら、それは万能な言い訳だ。その論評は、あらゆる時代のあらゆる娯楽作品に当てはまりかねない。どんな時代にもメタ的な作品も、ベタな作品もあったわけだから。
 例えば、東の言うポストモダン化が90年代以降の話とするなら、80年代には「ブレードランナー」も「ビューティフル・ドリーマー」もあったわけだ。

 だからポストモダンが存在しない、という話ではなく、東の言う図式をきちんと証明するには、どうすべきか、という問題だ。

 つまり、東がよくやるように、任意の作品、現象をピックアップして、それをAかBかに振り分け、「ポストモダン特有」というレッテルを貼る、という論法では、いつまでたっても東の図式が正しいかどうかは証明できないのだ。だって、そんなものAかBかのどっちかには、必ず入るんだから。

 それを踏まえた、もう少し説得力のある検証的態度を、今後見てみたいものだ。