理論と一般性

id:hazuma:20040420の記事より。新現実vol3の表紙にイヤミを言ったあと、東は、こうつなげる。

そして、それを見て考えました。僕が「動物化するポストモダン」で本当に行いたかったのは、「解離的な人間」についての話です。僕的には、萌えとメタが不可分にくっついてしまう、そのねじれた感性に興味を覚えるのであって、萌えがすごいとか、萌えが日本の未来だとかベタに言われてもまったく共感できません。正確には、ちょっとは共感できるところもあるし、儲かる世界なのだろうからそういうことを言いたいひともいるだろうけど、物書きとしての僕はそこに近づきたいと思いません。最近ますますそう思います。あるいは、最近ますます、そのような方向で自分の仕事や記憶を再編成してしまっています。こういうのを転向というのかもしれません。

 さて、批評家として、萌えとメタが不可分の作品に興味を持ち、それについて語るのは、なんら問題がない。
 一方で、東は、社会学者として、それらの作品がポストモダンの帰結である、という主張をしている。

 つまり、「このジャンルがおもしろい!」という主張だけでなく、「このジャンルが生まれるのは社会的必然なんだ!」という主張も併せて行っているのだ。

 で、俺は、そのことを疑っている。メタと萌えがくっつくのが、本当に一般性のあるジャンルなのか。またそれは、現代特有なのか?

 俺は……そして、ほかの多くの人が、東が、時代性を分析する時にあげる作品の選び方が、あまりに恣意的なことに苛立っている。「でじ子」は、本当に時代を反映しているのか? そもそもオタクの萌え市場なんて、かなり小さい市場であるにもかかわらず、本当に、それで社会が語れるのか?

 要は、一般性の欠如に対する疑念である。

 自分の理論にあてはまる作品だけ持ってきて、それらの特徴をつないでいけば、なんでも証明できるが、そんな証明には価値はない。いくらでも違う証明ができるからだ。東は、自分が出す作品が、本当に、一般性を持つものか、というのを、説明する必要がある。が、彼の議論で、そのへんに納得のいくものは見たことがない。

 逆に言うと、そうした一般性を獲得するには、彼の言う「萌えとメタが不可分にくっついた作品」の一般性を説明しなければならない。そのためには、ベタな萌え作品や、それが受けるように見える状況も、きちんと分析して、その中に「萌え&メタ」を位置づけなくてはならない。

 で、そういういらだちをかみしめている時に、「最近ますます、そのような方向で自分の仕事や記憶を再編成してしまっています。」とか、しれっと書かれると、まいってしまう。「記憶を再編成」ですか?

 現代ファンタジーセカイ系に、「萌えとメタ」。

 まさかと思うけど、もう社会学的な意義とかは、全部完全に忘れ去っちゃって、単に個人的に好きなジャンルを持ち上げるためだけに、大風呂敷広げているのかな?