この日記を書いていて、コメント欄などで感想をいただく時がある。賛成の時もあるし、反対の時もある。どちらも、参考にさせていただいている。

 反対の中には、いくつかのパターンがあり、その中で多いのは、「望月は、東が引用する思想家の主張をわかっていない」というものである。
 先に言っておくが、わかっていないことは、その通りだ。現代思想の教養は、大きく欠けている。

 ただ、そのうえで成り立つ批判もある。

 東が以下のようなことを言ったとする。
「Aという思想家の言で、Bという理論がある。理論Bのうち、Cという部分をDにあてはめることで、Eということがいえる」

 この時、私には、AとBの全貌はつかめない。しかし、東が議論に使ったCという部分については、一応、議論することができる。

 たとえばAがラカンで、Bが三界説としよう。ここで、実際に、東が議論の論拠として使う部分は、そのほんの一部のCに過ぎない。別にラカンの全著作を理解しなくても「C→D→E」が正しいかどうかは、それなりに検証できるはずだ。

 この時、「ラカンは、C以外のことも言っている。もっと勉強しろ」といわれることが多いが、それは的外れというものだろう。

 てなわけで、第8号である。

 今回の東の説明は以下の通り。

・映画を観る時に、人間は、架空の物語を現実のようにベタに体感しつつ、かつ、それが架空である、というメタな視点を忘れずにいる。
・一方、ラカンには「想像的同一化」「象徴的同一化」という考え方がある。
・たとえば父親に対して、「あんな風になりたい」とベタに思いこむのが「想像的同一化」一方で、人間としての父親に対して、その欠点も、きちんと受け入れるのが「象徴的同一化」である。*1
・これも、ベタな感情移入と、メタな批判的視点という意味で、映画における視点と同じである。
・近代の人間は、この二つの間に引き裂かれているというのが現代思想における近代人の一般的なとらえ方である。だから、近代とは「映画を観ることと哲学することが似ていると思われるような時代」なのだ。
・さて、メタな批判的視点を突き詰めると、人間はあらゆるものを信じられなくなり、何もできなくなる。それを防ぐのが「大きな物語」である。
・「大きな物語」というのは、単に、みんなが信じる理屈、理論というわけではなく(であれば、論理的な否定で消えるはずだ)、そうした否定も批判も飲み込んで、全体を安定させる装置である。
・東の主張では、「大きな物語」の崩壊した、ポストモダンにおいても、ベタとメタの乖離は存在する。ただし、近代とは違った形で。それは何か?
・以下次号。

 ラカンが実際に何を言ったのかの細かいところは、ともかく。
 あくまで、この文章を読む限りにおいて。

 ベタなあこがれと、メタな客観視、批判的な視線というのは……ものすごく普遍的な概念ではなかろうか? フィクションに感情移入しながら、かつ、フィクションと理解してふるまうことも、別に映画、関係ないじゃん。*2

 今回の文章の全部は(繰り返すが、東が述べている論旨においては)「人間は、自己批判をする」という、ただ、それだけでしかない。
 近代という時代においては、自己を客観視してゆくことが非常に重視されたことはわかるのだが、ここまで一般化しちゃえば、それは、近代に限らず、どんな時代でも……それこそ原始時代にマンモスを追ってた人にだって通じる真理だろう。
 何かをメタ視すること……単に憧れるだけから一歩進んで、きちんと現実として批判的な視点を持つことは、生存競争そのものに関わる重大事だろうからだ*3

 重要なのは、近代特有のメタ視の方法が何で、ポストモダン特有のメタ視の方法がなにか? ということだ。
 で、例によって例のごとく、「以下、次号」となる。

 さて、次号では、本当に、ポストモダン特有の乖離のあり方が語られるのだろうか?
 それとも、また、別の学説を持ち出して説明して、「この学説が、どうポストモダンに絡むかというと……以下次号」となるのだろうか?
 息をのんで待ちたい。

*1:ラカンの言う、「想像的同一化」「象徴的同一化」は、もっと深くいろいろな意味(B)があることは間違いない。ただし、東がここで使っている意味(C)に関しては、この要約で正しいはずだ。

*2:映画というジャンルが、一番、疑似体験の度合いが強い、ということだろうけれど、逆に言うとそれは、度合いの問題でしかない。ストーリー、キャラへの没入と、それをメタ視する自分が一緒に存在することは、ほとんどあらゆるフィクションに共通することだ。

*3:マンモス狩りの名人に憧れる若者も、ただ憧れてるだけでは、名人にはなれない。名人の人間的側面を理解し、その欠点まで含めて把握することで、はじめて次代の名人が生まれる。まぁ、どこにでもある話だろう。