CCとか

 Creative Commonsという運動がある。
 Commons……リソースを皆で共有することで、Creative……作品を創造することを支援しようという運動だ。

 ……といっても、何がなんだか、わからないだろうから、ちょっと説明。

 小説、映画、音楽、漫画、あるいはウェブページの日記まで、モノを作る時には、それを、どれだけ人と共有するかが問題となる。

 共有? なんで共有する必要があるのよ、と思うかもしれない。
 作った人間としては、自分の作ったものを強く所有したい、と、考えるのは、ある意味、自然だろう。
 数百人の人間が数億かけて作った作品を売ろうとする端から、ぽいぽい無断コピーされたら困るだろう。会社が潰れて社員が路頭に迷って首を吊る人間が大量に出るかもしれない。

 もちろん、そういうのは問題がある行為だ。
 でも、別になにも、全部を無料で共有する必要はない。例えば、作品の一部分の引用とかを認めることも、共有の内だ。
 共有を全然認めず、著作に関する権利をガチガチに固めちゃった場合、それはそれで窮屈になる。

 せっかくいい作品に触れて、その素晴らしさについて語りたいのに、ちょっとした引用まで禁止されてしまったら、それは、見る方にとって窮屈だし、作り手にとってもマイナスかもしれない。今の日本だと、同人誌や、パロディ系のflash、アニメのキャプサイト、歌詞を引用した批評、感想なんかが、そうした問題に直面しやすいだろう。それら全て、それ自体が、良い作品であるために、他の作品の共有を前提とするものだ。

 そもそも作品を作るということは、昔の作品の様々な要素を消化し、自分なりに作り直すことでもある。アメリカでも日本でも、著作権やら特許やらを厳密に厳密に解釈していった結果、「おまえの新作は、俺の旧作に、ちょっと似てるから金払え!」なんてことが横行し、新しいものを作るのがえらく面倒なことになっている風潮がある。

 こうした問題に関して、白か黒か、という答はない。
 ただし「ここまでは認めるけど、ここからはダメ」という線引きは、作品ごとにあっていいはずだ。

 クリエイティブ・コモンズは、誰でも簡単に、そうした選択肢を増やせるようにしようじゃないか、という運動だ。
 著作物という点では、なにも映画やアニメに限らず、私やあなたが書いているウェブページだって、同等である。そうしたぺージに、何の気なしに「無断転載禁止」とか書いていないだろうか?

 そうする前に、どういう線引きをしたら、自分が納得できて、また、他の人も幸せにできるか、というのを、ちょっと考えて、選んでみようというわけだ。ちょっとした日記なら、転載OKにしてもいいだろうけど、あんまりひどい使われかたはされたくない、とか。日記であっても、将来、まとめてエッセイに刊行するつもりがあるなら、また違うオプションが考えられるだろう。
 音楽やイラストなんかを作って、積極的に共有してほしい場合もあるだろう。コピーして置くのはOK。でも改変は困るなぁ、とか、あるいは、他の作品(音楽ならゲームとか)に組み込む場合は、どうか、とか。

 そう考えてみると、選択肢は色々あるはずだ。
 Creative Commonsは、All Rights Reserved(著作者が全権を保有)じゃなくて、Some Rights Reserved(一部権利を保有)の選択肢を与える。もちろん、No Rights Reserved(全部の権利を放棄)だって構わない。

 付随する面倒くさい法律事項とかは、きちんとした専門家が文章化するので、こっちは、気に入ったオプションだけ選べばいい、というわけ。

 その結果、「これは転載/再利用してもいいよ」というものが集まることで、皆が、気兼ねなく(ある日、突然、急に金寄越せ!とか言われることなく)、自分が作品を作るのに使える共有される資料(Creative Commons)ら、世の中は、もうちょっと面白くなるだろうという運動だ。

 拙い文章だが、興味があったら、以下のサイトをご覧になるか、あるいはレッシグの著作を読んでほしい。

・「コモンズ」(asin:4798102040ローレンス・レッシグ (著), 山形 浩生 (翻訳)
Creative Commons http://www.creativecommons.jp/
・クリエィティブ・コモンズ・ジャパン http://creativecommons.org/

 で、東の「ファッションとしてのCreativeCommons」である。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000091.html

 まず、事実だけ書いてみる。

・東は、Creative Commonsを肯定的に語らなかった。
・現在、Creative Commonsは、ファッションとして消費される一方で、その意義が忘れ去られている。

 この二つの事実から、どういうストーリーが考えられるだろうか?

1.東はCreative Commonsに否定的である、というパターン。
Creative Commonsの概念は、意味がない。だから肯定的に語らなかった。案の定、Creative Commonsは根付かなかった。ざまぁみやがれ」
2.東はCreative Commonsい肯定的である、というパターン。
Creative Commonsの概念には、価値がある。だけど、私は肯定的に語らなかった。結果、Creative Commonsは根付かなかった。私は、そのことを後悔している」

 普通に考えて、このどちらかだろう。
 だけど、東の主張は、このどちらとも違う。

僕はいままでCCにあまり肯定的に言及してきませんでした。(中略)その理由は、昨年あたりの状況では、CCの理念は、日本ではこういうかたちで「舶来の格好いいもの」として消費されるだけだろうと予測していたからです。実際、CCの名前だけは拡がったようですが、実態はいまでも上記のような状況です。ネットで話題になることも何となく少なくなってきました。

しかし、こうなってくるとあえて言いたくなるのですが、CCの理念はもう少し真剣に受け止め、長期的に取り組むべきものです。

 「どうせ根付かないだろうから、肯定的に語らなかった」というのは、ナニゴトですか?
 東は、Creative Commonsを根付かせたいのか、そうでないのか。
 根付かせたいのなら根付かせるべく運動すべきだろうし、しなかったのであれば、怠慢を反省すべきだ。
 無論、東本人に、Creative Commonsを根付かせる責任はないけれど、言論人が「大切なことなんだけど、どうせダメだと思うからやらなかったら、やっぱりダメだった」と、あっけらかんに語るのは、どうかと思う。

 もう少し、危機感とか後悔とか、そういうものが欲しいんだけどなぁ。

 俺個人に関しては、Creative Commonsの理念には賛成である一方、特に、活動はしていなかったので、色々と後悔はしている。てなわけで、まずは日記で書いてみたわけだ。

 肝心のクリエィティブ・コモンズ・ジャパンは、もうちょっと頑張って欲しいな、というのが、正直なところ。

クリエイティブ・コモンズ・ジャパンのホーム・ページへようこそ

以下の説明をお読みになる前に、このライセンス(使用許諾)の適用範囲について、法的な側面から解説しておきます。

皆さんご存知のとおり、著作権制度は条約が作られるなど国際的な協調のもとにありますが、個々の著作物は(直接的には)各国の法律で守られるものです。

日本法(著作権法6条)においては、日本国民(日本法人を含む)の著作物(1号)と、最初に日本国内において発行された(第一発行の)著作物(2号)、条約によりわが国が保護の義務を負う著作物(3号)を適用範囲としています。したがって、あなたが日本人であれば1号で、日本人でなくても著作物を日本で第一発行すれば2号で、あなたの著作物は保護されることになります。
(後略)

 これがトップページの引用。ちと文章が硬すぎて、普通の人が読む気にはなれない。本家英語ページは、そのへんが非常に工夫されてるので、参考にしてほしいものだ。