さて、人は何かを信じるものであり、また、それを疑うものである。

 何かを信じる“ベタ”な心は、人が行動するために必要だが、さりとて盲信は危険である。視野が狭ければ、他人のことを考えられなくなる。
 一方、自己を客観視する、すなわち“メタ”な立場に立って考えることは盲信を避け、他の多くの人のことについて考えるために重要だが、批判しているだけでは何も生まれない。

 東によれば、「近代」には、「メタ」の進行を止める「大きな物語」というのが機能していた。

 前回上げた例では、「朝日新聞」と「2ch」がある。
 ネットワーカーは、「朝日新聞」に代表される公的な報道機関が偏っていることを知っている(メタな立場)。一方、だからってネットで流通してる言説が、朝日新聞よりマシかというと、必ずしもそうじゃないのだが、そこまで深く考えない。

 そこでは「自分たちだけが、朝日が間違っていることを知っている」という意識によって、それ以上、メタな方向に走ることが止められている。
 そして、自分以外の、という保留はつくが、「多くの人が、朝日を信じている」という認識は共通している。

 この時、「朝日新聞」は、「大きな物語」として機能している、というわけだ。

 では、現代は、どうなのか?

 東によると、現代では、その「大きな物語」が無くなって、メタゲームが暴走している。
 かつてはメタ的な視点が公共性につながったものだが(自分一人ではなく、他のみんなはどうなのだろう? というのはメタ的な視点であり、公共性を生み出す)、それが行き過ぎて、公共性に結びつかなくなっている、という。

 つまり、「公共の利益として、これは必要だ」という主張に対し、メタな立場から「そんなこといっても、どうせ私利私欲/自己満足/無駄etcに決まってる」と言われてしまう。

 以上をまとめると、東によれば、近代では、「俺は信じないけど、みんなは信じてる」という形(イデオロギー)が存在し、現在では、「信じたいんだけど、信じる根底を否定されてしまう」というメタゲームになった、というわけだ。

 さて、「メタゲームの暴走」とは、何を意味するのか?

 たとえば、公共の価値を説く理論があったとしよう。一方、それに対する反論がある。
 そうだな、「Winnyの目指す、新たな著作権モデルには一考の価値がある」とでもしようか。これをメタ0レベルとしよう。

 これに対する反論として、「んなこといって、おまえら、どうせゲームとCDをタダでやりたいだけだろ」という反論がある。これをメタ1レベルとしよう。

 それに対し、「確かに無料でゲームが配られたのはマズいけど、それはそれとして……」みたいなメタレベル2の反論が成立し、反論の反論も可能だ。そうして積み重なってゆくメタレベルを読んでる内に、迷子になって、なにがなんだかわからなくなった……というなら、「メタレベルの暴走」と呼ぶにふさわしい。

 ……でも、実際に起きてるのは、そんなことじゃないよね。メタレベルを10も20も登って迷子になる、なんて人は数少ない。

 実際に起きているのは、メタレベル1のあたりで、「ふ〜ん」と思考停止している状態だ。つまり、公共性を主張するレベルの、一つ上あたりで終わってる状態だ。

 しかし、現代では、自己相対化の視線はむしろ公共性を蝕む効果しかもたなくなっている。メタレベルへの遡行が公的な価値で停止しないため、この社会の人々は、いかに高尚な目的を掲げていても、「そんなこと言ったってそれも結局は自分が好きでやってるだけでしょ」という自己ツッコミから逃れることができないからだ。裏返せば、いまベタに政治や国家の将来について語ることができるのは、そのような自己ツッコミに悩まされることのない素朴な人々だけである。

 東の主張する以上の状況は、上でいえば、メタレベル10や20ではなく、メタレベル1に過ぎない。つまり、メタゲームは別に暴走していない。ただ単に「公的な価値で停止」していないだけだ。

 だから、問題は、「ポストモダンにおいて、あらゆる価値観が崩壊したから、メタゲームの暴走が起きた」ということではなく、「なぜ、公的な価値の主張は、否定されるか?」だ。

 で、これは単純な問題だ。

 前提1。
 そもそも人間は、細かいことをずっと考え続けるのが苦手な動物だ。思考停止したほうが楽なのだ。だから、考えることが仕事の哲学者や社会学者を除けば、一般人のメタレベルは、そうそう増えたりしない(傾向がある)。

 前提2。
 人間は、自分の利益になる思想を認めたがる(傾向がある)。

 以上から、以下のことが導かれる。

 いつの時代であっても、多くの人間のメタレベルは、低いところで停止する。かつてメタレベルが「公共の価値を認める方向」で停止し、現在、そうでないように見えたら、それはメタレベルが上昇したせいではなく、ただ単に、利益の位置が移動しただけである。

 つまり、戦後の焼け跡から高度経済成長をする時は、「みんなで頑張って日本を豊かにしよう」という公共の利益は、個人の利益と直接重なっていた。

 現代では、そうじゃない。頑張って働いたところで、劇的な生活環境の変化が望めるわけでもない。年金を払うことは公共の利益だが、多くの人にとって個人の利益にはならない。

 だから、メタレベルは公共の価値を否定する方向で停止するようになった。以上、証明終わり、である。

 以上の議論は、東の議論に対し、優れている点が一つある。

 つまり、東は、「近代では大きな物語が機能し、現在では機能しなくなった」ということに対し、何の説明も用意していないことだ。何の脈絡もなく、世界は「メタゲームが暴走」し、「ポストモダンによる思想の脱臼」が起きたことになっている。けれど、それではトートロジーに過ぎない。具体的に、何がどのように変化したのかについては語られていない。

 上の理論は(まぁ誰でも考えつく普通の説明だと思うが)、その点について、それなりの説明を用意したし、検証も可能である。

 近代のシステムは、適度なメタ志向を備える「自意識のある人間」を求めていた。しかし、ポストモダンのシステムは、不必要なメタ志向を備えず、一芸に秀でている「動物的」な専門家(よく映画に出てくる戯画化されたハッカーがそれだ)を求めている。メタゲームを止める装置が壊れてしまったせいで、この社会では、メタの価値が圧倒的に下がってしまったのだ。「あえて」にこだわる宮台と大塚の戦略でさえ、結局は論壇プロレスのひとつのネタにしかならない。僕たちは、そんな過酷な時代に生きている。こんな時代に自意識=メタ志向を抱えてしまった人々は、いったいどうすればよいのだろうか?

 さて近代のシステムは、「メタ志向を備える自意識のある人間」を求めていただろうか?

 チャップリンの「モダン・タイムス」やら「ジャパニーズ・ビジネスマン」やらを見てわかる通り、必要なのは、会社の機械、歯車であって、メタ志向は必要とされていない。

 それは現代でも同じ。会社に入れば、会社に対する忠誠、あるいは職務に対する情熱は求められる。昔から何も変わってはいない。

 宮台や大塚に影響力がないとしたら、それは単に、二人の才能と運の問題だ。
 やり方次第では、「ゴーマニズム」のように公共性を追求するものだって、売れる(中身には賛成しない)。

 社会全体の行く末はともかく、自意識=メタ志向を抱えた個人にとっては、「私利私欲も自己満足もあるけど、だからって、この行動に意味がないわけじゃない」という信念を持つことが、アドバイスとなろう。そういう悩み自体は昔からあっただろう。

 そういう意味、あんまり社会は変わっていないように見えるのだ。