さてさて、あらぬ方向に話を振り続けてきたcrypto-survival noteZ、10号にしてやっと、モダンとポストモダンの違いについて具体的に言及したのだけれども。
 内容が肩すかしなところは変わらない。過去の文章の末尾を見てみよう。

近代社会のネタ/メタ分割(映画モデル)と、ポストモダン社会のネタ/メタ分割(データベース・モデル)の違いについて語ることにしよう。
──9号

 ならば、その安定化装置=大きな物語が崩壊したポストモダン社会において、人々のメタ意識はどのような変貌を遂げるのか。その変化を捉えるためには、映画の隠喩を離れ、「インターフェイス」や「解離」といった言葉を使った新しい枠組みが必要になる、というのが僕の考えである。
──8号

 そして、そのような文脈のうえで僕が当時考えたのは、「映画を観ることと哲学することが似ていると思われるような時代」が、「コンピュータを触ることと哲学することが似ていると思われるような時代」へと移行すること、それを「ポストモダン的主体」の誕生として、精神分析の概念を換骨奪胎するかたちで定式化できないか、ということだった。
──7号

 10号の説明を読んでも「コンピュータをさわること」が「ポストモダン」に近い理由は、わからない。
 「インターフェイス」や「解離」という言葉を使った新しい枠組みも提示されていない。
 「映画モデル」と「データベース・モデル」についても語られていない。
 ポストモダン社会の「ネタ/メタ」分割についても書かれていない。

 前は、「ポストモダン社会でも、ネタ/メタ分割はあるけど、それはモダンとは形が違う」と言っていたのに、今回言ってるのは、「ポストモダン社会では、メタゲームが停止しない」という結論になってしまい、メタ/ネタの分割線は、どこかへ言ってしまった。

 正直、肩すかしである。