映画モデルとコンピュータモデルの話がないな、と、思ったら、今号で書かれていた。

 というわけで、おさらい。

 東氏によれば、近代というのは、メタレベルと、オブジェクトレベルが、うまく結びついていた時代である。

 つまり、一つの大きな価値観があった時、「○○は、真実でないと俺は知っている」という風に批判することで、人間はメタレベルに立つ。一方で、「世間の(俺以外のやつらは)○○を信じている」という思考停止をすることで、近代の人間は、それ以上、メタレベルに深入りしない。

 そうすることで、「○○」という価値観は、結局、公共のものとして存在することになる。

 一方、ポストモダンな現代は、その思考停止が起きず、「○○」は解体しつくされてしまう、と。

 で、それに対する疑念だが。まず、ここで想定されてる「近代」「現代」ってのは、具体的に、なんなのさ、という話がある。

 「俺以外のやつらは○○を信じている」という形で思考停止するのは、現代でも、ありふれている行動だ。実際に、東は、2ちゃんねるの人間が、そうした形で、「ネットvs朝日新聞」という価値観を信奉している、と、指摘する。そして、価値観を解体しまくるのも、別に、現代に限った問題じゃない。

 むろん、近代/現代というのを、きちんと定義して使うなら、何かが言えるかもしれないが、東は、近代/現代を、わりと万能原理として、社会の行き詰まりから、アニメの内容まで、なんでも、説明しようとしてしまう悪癖がある。

 たとえば、上記の価値観の解体が、「エヴァでアニメがポストモダン化」という東の主張と、どう結びつくものやら、俺には検討がつかない。

 常識的に考えると、メタが止まるか暴走するかは、文化の様々な局面の様々な時代において(ある程度の関連を持ちつつも)並列して、何度も繰り返して起きることであって、「近代vs現代」みたいな、単純な区分けができるかというと、ちと疑問なのだ。

 もっと簡単に言うなら、メタ/ベタは、流行廃りである。アニメならアニメといった娯楽のジャンルにおいて、ベタなものが人気を得て定番化すると、それらをメタ化する作品が生まれ、メタが行き過ぎると客がついてこれなくなって、ベタに戻る。近代/現代は関係なく、単にそれだけのことだ。

 社会情勢の場合でも、食うに困ってる間はベタな信念が横行し、食うに困らなくなると、メタなポジションがかっこいいとされ、それが行き詰まったり、また不景気になる内に、ベタが盛り返したりする。

 そんなもんじゃないの?

 まぁさておき。

 東は、近代の思考停止が、映画的で、現代が、コンピュータ的だという。その理由は、以下の通り。

 映画というのは、見ている間は実体験として感動するわけだが、一方、映画というのは、「他人の視線」を借りて見る行為である。そこにはカメラワークが存在し、それを意識することは、他者を意識することである。
 つまり映画は、他者性をメタに意識しつつ、ベタに体験するという行為なわけだ。これは東の言う近代性。

 一方で、コンピュータ、たとえば、デスクトップの情報は、同じ映像であっても、そうした「視線」を持たない。つまり、映画のように、メタとベタを見る人間が一致させる必要がない。これは東の言う現代性、らしい。

 はぁ、まぁ、そういう見方もできなくもないですね。
 ただ、いまのところ、屁理屈レベルでしかない。

 たとえば、ちょっと言い方を変えて。

 デスクトップに表示された情報は、そこに視線が存在しないが故に、我々は「ベタ」に受け止めやすい。

 たとえば、ウェブページの個々の内容について、その作者を意識し、メタに批判することはできるけれども、全体として「ウェブページの情報が、ウェブページに載るような情報という点で偏向していること」に関しては、無頓着になりやすい。
 デスクトップに依存することで、コンピュータ、ネット以外のソースを軽視するという点で、我々は、「ベタに」「オブジェクトレベルで」コンピュータ/デスクトップの情報を受け入れている。

 故に、こうしたデスクトップの特性は、近代的である。

 一方、映画を見る時は、我々は、常に作者/監督の視線を意識し、映画を見ている間はベタに一体化しているかもしれないが、映画を見終えてから、様々な形で、それらをメタに解体する(たとえばネットで感想を交換する、という形で)。
 どんな素晴らしい映画であっても、シニカルな解体はさけられず、それらは決して止まらない。

 故に、こうした映画の特性は、現代的である。

 ……なんて、東と反対のことも言えたりする。

 このレベルのこじつけに、何か意味があるとは今のところ思えないが、そのへんは来週以降に期待。よもや、これだけで終わりとは思えないので。