AIRとかCLANNADとか
久しぶりにゲームラボの記事。
1.エロゲの一側面として、彼女をゲットして家族を作り、社会的に認められること、すなわち「父」となることの欲望を、ゲーム上で味わうというものがある。
2.しかるにKEYのAIRでは、ヒロインを幸せにした主人公は、ヒロインの世界から消えてなくなる。すなわち「父になる」ことを否定している。これは、上記のような観点からすると、非常に異質であり、ラディカルである。
3.同じ作者によるCLANNADでは、家族、社会性が強調され、ハッピーエンドの作品となった。これは、保守的な作品であり、また近年、オタクおよび社会全体が、家族志向になったという流れとも関連があるだろう。
ここまではまぁ、いい。ベースになっている仮定はともかく、言ってることの筋は通っている。
問題はこのあとだ。じゃぁ、AIRがラディカルなら、なんで人気がでたか、という疑問に対して、東はすさまじいことを言い出す。
したがって、AIRがあれほどの商業的成功を収めたという現象はきわめて逆説的であり、1990年代半ばのアニメにおける『エヴァンゲリオン』と同じく市場の豊さを証明している。
なんと!エヴァもAIRも、売れたのは「市場の豊さ」のおかげなんだそうだ。
もしもし?
市場が潤ってる時に、おこぼれで作られるラディカルな小品というのは、確かに存在するだろう。
でも、エヴァが?
エヴァと同時期に出ていた保守的なアニメはエヴァより売れたのか? そんなことはなかろう。
むしろ、エヴァが、アニメ業界を豊かにしたとさえいえるのに、なんて妄言を口走るんだ。
AIRの場合、KANNONのブレークによる期待などの後押しもあったが、にせよ、それなりに売れた訳だし、一般的な欲望をラディカルに否定しただけの作品がなら、もっと低迷していたはずだ。
なんというか無茶苦茶である。これなら「泣き要素の順列組み合わせ消費」のほうが、まだマシだ。
普通に考えれば、AIRに人気が出たのは、保守的な欲望も、きちんと取り込んだからじゃなかろうか、と、考えるところだろう。
さて、こういうお話のパターンがある。
けなげに生きる未亡人と、元気な息子。未亡人に圧力をかけ、身体を要求する悪徳地主。そこにふらりと現れる風来坊。
こうくればもう、結末は予測できるだろう。地主を倒し、少年に大人の男の生きざまを見せた風来坊は、少年の懇願と、未亡人のすがるような瞳を振り切って、夕日に消えて行くのだ。
バリバリに保守的なストーリーだ。
さて、これ、無論AIRとは一致する部分も違う部分もあるが、主人公が疑似家族を作って、明らかに「父となる幸せ」を肯定的に描きながら、その最後で、それを否定する基本構造は一緒だ。
せっかく親子(親娘)を救っておきながら、去ってゆく/消えて行く俺って、なんてかっこいい/なんて悲しいんだ! てなもんである。
東は「AIRのラディカルなメッセージは「おまえたちは父になれない」だ」というが、何のことはない、それは「流れ者には女はいらねぇ」というベタベタなものなのだ。*1