引き続き、「九十九十九」について(以下、ネタバレあり)。

 「九十九十九」のクライマックスでは、3人の「九十九十九」が一同に会する。
 3人とも自分のいる場所がメタフィクションの中であることを認識している。

 一人目は、この世界は「神」が生み出したものだと看破し、物語の虚構の中に生きることを否定して、神のいる物語の外=メタレベルの上方を目指そうとする。そのためには、自分の家族(彼の今いる現実の家族)を否定することも辞さない。
 二人目は、この世界は自分のインナースペースであり、「神」とて自分自身ではないかと考える。その上で、今の現実の幸せを一番に考えて、その幸せを維持しようとする。一人目のように、自分自身の認識を変えるために、周りの家族を破壊することをよしとしない。
 三人目は、その両者に両者の立場から説得されながら、第三の道を選ぶ。それは、自分が神であるかどうかはわからないけれど、今、自分が感じている、この幸せは大切だと考える。

 で、この一人目が「自然主義」二人目が「まんが・アニメ的リアリズム」三人目が「ゲーム的リアリズム」なんだそうだ。
 唯一の現実を大切とする立場、無数の虚構にこそ耽溺する立場、両者を二項対立と捉えない立場、である。
 現実の活写、あるいは、現実を無視した虚構の創造の両者は、リアリティの基盤を、物語、作者の側に置く。

 一方で、「ゲーム的リアリズム」、3人目の九十九十九の立場は、無数に分岐し、自分を操っているかもしれないメタリアルの中で、「自分が選ぶこと」「経験すること」自体に、リアリティの基盤を置く。つまり、リアリティの源泉は「プレイヤーが作り出す」ところにある。

 そのへんは、ノベルゲームにプレイヤーが感じるリアリティとも共通するものがある(だからゲーム的リアリズム)であり、ポストモダンである、というわけだ。

 さて。
 今回は、すっきりした論だったので、矛盾は感じなかった。ただ、いくつか、感じた意見の違い等。

 東浩紀が整理したところの「ゲーム的リアリズム」というのは、別にゲーム世代特有のものではない。

物語志向メディアからコミュニケーション志向メディアへと社会編成の重心が移動するとともに、リアリティの源泉もまた、物語の側から、物語を用いてコミュニケーションを行う側へとゆっくりと移動しているのだ。

 なので、以上のような東の時代意識にも、あまり賛成できない。

 不確かで、あやふやな世界にぶつかった時、「この世界は虚構で私は操られてるかもしれないが、たとえそうであったとしても、今の私のこの経験、選択は私のものだ」という答は、かなり一般的なものだ。模範解答ですらある。ディックでもいいし、ヴォネガットでもいい。SFでは、かなり昔からある古典的なパターンだ。

 ていうか、中高生の頃に、唯我論や決定論で悩んだあとに、よく思わなかった?

 逆に言うと、今回、東が「九十九十九」の面白さとして取りだしたのは、非常に、古典的な方法論、成長物語である、と言えると思う。
 メタフィクションの構造を取りながらも、基本の枠組みは、古典的とさえいえるものであるからこそ、「九十九十九」は名作として完成しているのだ、と思うんだけどね。