奈須きのこ罵倒

 で、奈須きのこだ。

僕は今号の「ファウスト」の編集方針、具体的には、ライトノベルとゲームが融合した新しい小説の可能性を奈須きのこに代表させる方針に強い違和感を感じている。
 それはひとことで言えば、奈須の作品に、「物語を語ることへの戸惑い」が一切感じられないからである。(中略)しかし、奈須は、想像力のフェイク性に対する疑念や、作品が「商品」として流通してしまう事態に対する恐れをほとんど抱いていないように見える。

 だそうだ。

 戸惑いやら恐れやら、という内的感情に意味はない。あかほりさとるにだって、東の言うような戸惑いはあるかもしれないし、トラウマまみれの私小説書きだって、手癖で書いてるかもしれない。

 肝心なのは、作品として表現されたものの中に、それらを位置づけることだ。それをするのが批評家の仕事だ。

 東浩紀は、奈須の作品の、どのような部分に、それが欠如してるか、という話を、一切しない。驚くなかれ、今回のコラムには、作品名さえ出てこない。「DDD JtheE」なのか、「空の境界」なのか、あるいは「月姫」、「Fate/Staynight」なのか、それさえもわからない。

 驚くべきことに、この後、東は、これを自明として、その「恐れ」とやらが、奈須作品のどこになくて、他の作品のどこにあるか、という検証を、まったくしないまま、突っ走る。

清涼院流水にしろ、西尾維新にしろ、佐藤友哉にしろ、滝本竜彦にしろ、物語消費の中で消費の論理を食い破ってしまうような、毒を秘めた作家たちである。僕自身、その路線で長編評論を連載中だ。しかし、奈須作品にそのような「毒」があるだろうか? 僕にはその点がわからない。

 だーかーらー。
 わからないーとかじゃなくてー。
 それを、きちんと、説明するのが、あなたの仕事でしょー。
 何の根拠もなしに、作家に、わけのわからんケチつけまくるのが、批評家の仕事かっつの。

 かろうじて根拠として述べられてるのは、奈須きのこの作品はウェルメイドで、続編を意識してるが、他の作品は違う、というもの。元長の「ワールド・ミーツ・ワールド」は、「Sense Off」の塔馬依子が出てたりとサービスたっぷりで、続編も書けそうな形態だと思うけどな。

僕が一時期のライトノベル美少女ゲームに興味を抱いたのは、そこにはウイルスが妙に多いように感じられたからである。もしそれが、業界のメジャー化に伴っていま急速に駆逐されつつあるのだとすれば、悲劇と言うほかない。

 ライトノベル業界はメジャー化していない、というのは、口が酸っぱいのでいいいとして。
 「一時期の」ということは、つまり、現在は、ラノベ美少女ゲームもやってないのね。ふーん。