今月は、人間の世界観の変遷について。

 カントの「仮象」と「物自体」でもラカンの「想像界」と「現実界」でもなんでもいいが、人間にとって、世界は、「認識&理解できる、経験世界」と、「理解できない物。直接的な感覚の外にあるもの」の二つに分けられる。

 で、この、理解可能な世界と、不可能な世界をつなぐ架け橋として、ラカンの時代には言語が仮想されていた。
 ある種、素朴な科学館。言語や論理を積み重ねれば、その不可視な世界を理解できる、というものだ。

 他方、21世紀を迎えた現代社会においては、どうか?
 東によれば、違う説明原理が顔を出しているという。

 ひとことで言えば、それは、経験的世界と超越論的世界、モノの領域とイデアの領域を「計算」によって「創発」的に結びつけるような説明原理である。物理法則に盲目的に従うだけのユニットも、数が十分に大きく、適切な初期条件さえ与えられれば「自然」にメタレベルでの秩序を生成する。それがいまもっとも人気がある世界観だ。実際に、このタイプの論理は、いまや、認知科学から経済学や計算機科学、はてはニューエイジ系のアヤシゲな思想まであらゆるところに顔を出している。第3世代システム、オートポイエーシス複雑系ニューラルネットワークといったところがキーワードだ。

 えーと。何からつっこんだらいいのかな。
 東自身も言っているように、その手の論理は、頭の悪いニューエージ、ニューサイエンス系のトンデモ理論の温床になっている。そういうのは20世紀にほっといて、21世紀まで持ち込んでほしくないな、と、個人的に思う。
 ユニットの数をちょっと大きくなれば、メタレベルでの秩序が生まれるというのは、単なる妄想に過ぎない。世の中、そんなに甘くない。

 誤解を避けるため付け加えておくが、僕はここで、近代の理性中心主義とポストモダンの計算中心主義のどちらが「正確」で「科学的」なのか、といった議論をしたいのではない。問題になっているのは(科学史社会学の訓練を受けていないひとには馴染みのない問題設定かもしれず、また、例のソーカル事件を素朴に受け取った人々は大嫌いな議論なのかもしれないが)、その「正確さ」や「科学性」の輪郭そのものを決定している、世界に対する構えそのものである。

 で。
 例の、ソーカル事件を素朴に受け取った人間なんだけど、「正確さ」や「科学性」の輪郭そのものを決定する、「世界に対する構えそのもの」ってナニよ?

 もちろん、科学において、超統一理論で全部が完璧に理解できる、という理想は、様々な方面で消えた。計算機をぶんまわす方法から、様々な実りのある知が生まれてもいる。

 ただ、「世界に対する構えそのもの」を言うなら、「理性中心から計算中心主義へ」というのは、どっちも極論に過ぎない。
 「世の中はAだけじゃわからない」というのは「これからはBだ」というのとは全然違う。
 科学性を決定するパラダイムの変化を、そのレベルのタワゴトで位置づけられる、と、本気で思っているなら、もうちょっと真面目に勉強したほうがいいんじゃなかろうか。

 人間の世界は、感覚可能なものと感覚不可能なものから成り立っている。言い換えれば、「正確さ」や「科学性」が適用可能な領域(反証可能性が適用できる領域)と、それを超えた領域の二つから成り立っている。したがって、その両者を繋ぐ言説は、原理的に、正確さや科学性の彼方にある。

 たとえば、目で見える化学実験を通して、目に見えない分子の世界が見えてくる。
 この時、分子の世界は、最初は、「感覚不可能な世界」だったのだが、科学の領域に繰り込まれたわけだ。
 そういう意味でなら、「感覚可能な世界」と「感覚不可能な世界」をつなぐ言説は、正確性、科学性の「内」にある。「彼方」ではない。
 少なくとも、20世紀の科学と21世紀の科学とで、そうした繰り込みの方法論が大幅に変化したことはない。

 一方、原理的に感覚不可能な事象については、これは、最初から科学性の彼方にある。その時、科学は、両者をつなぐ言説「ではない」。だって、最初から科学性の彼方にあるんだから。

 レベルの違うものをぐちゃぐちゃにして、この人は、いったい何が言いたいのか。

 科学はさておくとして、東浩紀の言いたいことは、要するに、一般人の世界に対する、「なんとなく」の感覚が、20世紀と21世紀で変化し、それが、理性主義と計算中心主義である、と言いたいらしい。

 つまり、昔は人間は理性的な動物なので理性を鍛えて理想社会を作ろう、という世界観だったわけだが、今は、個人がゆるゆると好き勝手にやることで、面白いことが創発される、という世界観が台頭してきているというわけだ。

 まぁ、そういう「気分」も、確かにある。

 Linuxなんかのフリーソフトの成り立ち(見ず知らずのハッカーがネットを介して協力し合う)なんかが、まず例にある。
 OSたんを生んだふたばちゃんねるみたいに、みんなで好き勝手に絵を描く中から、様々なものが生まれてくるところとか。

 あと、たとえば、普通に絵を描くにしても、今だと、フォトショップで適当にフィルタをかけまくって、それっぽい絵を描けたりする。
 「フィルタ」というのは、画素に対する計算処理なわけだが、絵描きの中で、フィルタの内容を行列レベルで理解している人は、希だろう。でも、フィルタは使う。絵は描く。
 計算力をぶんまわすことが、皮膚感覚になっている一例である。

 ただ、ちょっと考えれば、誰にとっても、それは世界の一部にしか過ぎない。仕事の全部が、オープンソース化できるわけじゃないし、フィルタに頼りすぎてダメな絵を描いちゃう人も大勢いる。

 「計算中心主義世界観」は、誰にとっても、「そういうところもあるな」であって、世界の根本に横たわるような支配的な気分ではないはずだ。

 また、その「気分」を20世紀、21世紀、モダン、ポストモダンの二元論にしちゃうのが、相変わらず、乱暴だなぁ。

 例えば、東が先に述べた例で、グノーシスやらニューエイジやらは、確実に20世紀の、20世紀的な事例だ。理性を捨てて欲望を解放してラヴ&ピースでハッピーというのは、ヒッピーコミューンの系譜だし(無論それはコンピュータ、ハッカーコミューンの祖でもある)、グノーシス思想や、理性否定欲望肯定の根っこは、ずいぶん昔に遡る。

 今回の記事だけでに限っても、

・皮膚感覚として入り込んだ計算中心主義(フォトショップのフィルタとか)
・多くの人が気づかぬうちに台頭している計算系技術(個人情報収集とか)
・それらの有効性・適用限界
・計算中心主義のようにみえて、実は、旧来の感覚(グノーシスとかニューエイジとか。あるいは、複雑系やらオートポイエーシスやらの内、それらの焼き直しでしかないものとか)
 これらを分別する視点が欠けている。あと科学を作るパラダイムの話は余計。