相変わらず、西島氏が晒し者になってるんだけど、いいの、これ?
 西島氏は、「ほしのこえ」より前に、自作アニメを作っていたそうである。

エヴァンゲリオン』へのアンサーとして制作したのが『video!』(中略)アニメーション表現としてオタク的な文脈をきっちり押さえているんですが、映像のテイストとしては、微妙なおしゃれ感覚、というかアートフィルム的なものが入り込んでいて、その折衷みたいなものです。
(中略)
 だから、クラブとかに行っている兄ちゃんから見ても寒くはないはずだし、と同時に、オタクだって、ガイナックスのやってきたことを踏まえて作っている映像だから、目をそらすことはできないだろう、全方向への対応性を考えた上で作られた映像なんです。けれど、あんまり反響もなくてですね。

 hakagixの時にも書いたが、どうして、この人たちは、相反する層を同時に取り込もうとするのかなぁ。

 例えば、「三歳児の女の子と五〇代のおじさんを同時に視野にいれた」作品を作るのが難しいというか、ほとんど無理、というのは、誰にでもわかるはずだ。
 「オタクとクラブの兄ちゃん」の両方を一辺に取り込もうというのも、それと同じくらい無理だと思うんだが。

 どっちかを中心にすえて、オタクの人に、少しでもクラブ文化とかに興味を持ってもらうための作品とか、その逆、というのならあり得るだろう。が、裏を返せば、それ以外は難しい*1

西島:だから、『凹村戦争』は、新海さん的なアプローチを試みているのが半分、SFに対するオトシマエというか、文化的な位置づけが半分、という感じです。僕は、たぶん、文化的なセンスがいいひとなんですよ。自分で言うのもなんですけど。バランス感覚がいいんです。だから、いろんな方向に気配りをしてしまうわけですが、僕から見ると新海さんの作品にはそういうものがまったくない。ないがゆえに、遠くに飛べている、というのが『ほしのこえ』を観て思ったことです。

 文化的なセンスがいい人なんですか。へーえ。
 いや西島さん、それは文化的なセンスでもバランス感覚でもなんでもないですよ。
 あなたは要するに、オタクに魅かれながらも「オタクかっこ悪い!」と思ってる。
 だから、その格好悪さを中和するために、「おしゃれ感覚」を盛り込もうとする。
 そこで当のオタクを見下してるから、そっぽ向かれる。

 それだけのことですよ。*2

東:(新海は)ガイナックスに影響を受けて、日本ファルコムで訓練され、いまでは美少女ゲームのOPも手がけている。けっこうわかりやすい線上で出てきたひとであるにもかかわらず、そういうサブカルチャーの重みからは自由に作品を作っている。

 いやなんというか。
 ガイナックス日本ファルコム美少女ゲームというオタクロードで生きてきた人間が、どうしてサブカルチャーに縛られなきゃならんね?
 それは西島みたいな、「オタクかっこわるい」と思いこんでるオタクに限られる現象だって。

東:いわゆる大塚さん的、というか新人類世代の一部の見方によると、僕たち団塊ジュニアは、ひ弱で物語消費に手なずけられやすく(笑)、先行世代が用意した想像力をリミックスして楽しむぐらいしかできないということになっていた。ところが、新海さんはそういう重みからとても自由なんですね。

 いっちゃぁ悪いが「ほしのこえ」は、まさしく、先行作品をリミックスして楽しんでる作品だと思うんだが。
 西島みたいに「オタクとおしゃれの統合を!」とか余計な邪念がないだけで。

東:それにしても、普通、ストレートな感情的表現を好む作家には天然のひとが多いと思われている。ところが新海さんはそうではない。叙情的な作家の見方が、新海さんと出会って変わりました。
新海:単純に一つの技術だったりもしますからね。その叙情っていうのは。

 「ほしのこえ」は、様々な意味で、計算された、言い方をかえれば、「あざとい」作品だ。
 技術的に練られた叙情。ストーリー構造の一般性。
 先行作品へのレスペクトを盛り込みオタクを引き込みつつ、それらへの言及を過剰にしないことでオタク以外も排除しない作り。

 疑うべくもなく自分の感性を出しつつ、一方で、非常に職人的な仕事をこなしている。
 そこが話題となった所以であろう。

東:天然ではないにもかかわらず叙情性を恐れない。これが新海さんの新しいところなんでしょうね。結局大塚さんもそこに驚いたんだと思います。

 いや別に新しくもなんともないから。物を作る人にとって叙情が技術の内なのは、ギリシャ悲劇の時からそうだから。
 ナイーブに見える物創ってるやつがみな天然とか、天然じゃないやつはナイーブなもの作れない、とか、いつの時代の人なんですか、東さんは。

*1:ビートマニアが流行った時、ゲーセンでゲーマーと本職のクラブDJがすれ違う、みたいなこともあったらしい。平成仮面ライダーは、変身グッズで子供を、イケメンで母親をという戦略で、それなりに成功を収めた。それくらいうまい仕掛けをするのであれば、まったく不可能ではないのだろうけど

*2:あるいはそれは、様々な分野への目配りがあるが故に、自分の中のオタク性が相対化されている、と言い換えてもいいかもしれない。でも、エンターテイメントというのは、基本的に、相手の自己像を肯定するものであって、相対化しても、誰も喜ばない。自分の中の相対性は、きちんと制御しないと、小学生つかまえて説教するような作品しかできあがらない。もちろん自主制作だからエンターテイメントでなくてもいいけど、エンターテイメント性を放棄した作品に反響がないのは当たり前だ。