ネットがなめられる理由

http://www.hirokiazuma.com/archives/000066.html

というか、だれだか知らないけど(ということにしとくけど)、ひとの悪口を書くときは、それくらい調べましょう。前にも言ったことがあるけど、そういうひとがいるからネットはなめられる。Google使えば評論書けると思ったら大間違いです。

 ネットの評論……金を取ってない素人の無邪気な評論が、まがりなりにも商業の場で活躍される人と完全に一緒にされる日が来ないのは、間違いない。

 ネットの評論の中で、商業評論以上に素晴らしいものがでてくることは、当然あると思う(実際、現在でも存在している)。ただ、ネットの質を誰かが取り締まらない限り、玉石混淆であること自体が変わるわけはない。そのへんの小学生が初めて書く評論だってあるのだ。良い評論だけになるわけがない。そして質を取り締まられたネットには魅力がない*1

 まぁそれはさておき、俺からすると、東氏のような人がいるから「ネットがなめられる」と言いたくなる。

僕がネットの用法を無視してネットの外で「セカイ系」という言葉を使いまくって一派を打ち立てていると批判しているひとがいるみたいで、そのとばっちりでうちにメールまで来ました。そういう悪意あるメールは普通相手にしないのですが、「メタリアル……」連載も終わっていないのにそういうデマをばらまかれるとはなはだ迷惑なので、簡単に書いておきます。

批判しているひとがいる「みたい」で、「メールが来た」。

客観的な事実として読み取れるのは、「一通の変なメールが来た」ということになる。それはそれで困り事だが、「ネットの外で(略)」というのに対し、東は何の証拠もあげず、自分を被害者にしている。

さて、ここ最近セカイ系の話題が増えており(うちのページへキーワードで来る人も多い)、東氏の書いたセカイ系の記事が話題になることもあった。俺が知ってる限りでは、「blogで、今頃セカイ系とか書いてるよ」とか「ゲーラボの座談会、いい加減すぎ」というのはあったが、「ネットの外で東一派が」というのは見たことがない。

実際に、そうした人がいるにせよ、東氏が、きちんとソースを示さない限り、「ネットには頭の悪いやつがデマを広めている」という印象が一人歩きすることになる。つまり、結果として東氏は「ネットには悪いやつがいる」という評判を自分で増殖させているわけだ。

もう一度言おう。はっきりいって、あなたみたいな人がいるから「ネットがなめられる」のだ。

*1:要するに、商業の場で金とって仕事してる=多くの人に求められ、自分の場を持つに至ったプロが、素人に対して、「おまえの仕事はいい加減だ」ってのは、どうよ? ってことだ

セカイ系再び

 ついでなので、セカイ系について、また駄文など。

 基本的にセカイ系という言葉にはきちんとした定義も意味もなく、皆が皆、適当に使っており、それが指す作品も様々に異なってるので、セカイ系をきちんと定義するのは事実上不可能に近い。

 逆に言うと、「俺的に○○ってセカイ系なんだよね〜」という用法が一番正しいともいえる。その「○○」のゆるやかな集合がセカイ系なわけだ。その中心あたりには、ほとんどの人の意見が一致する場所もあり、端っこのほうでは、「なんだそりゃ」的な作品まで含まれている。

 さて「セカイ系」の歴史とかを気にしすぎるのは、あまり意味がない。みんな歴史もなにも気にせずに、自分のセンスだけで「セカイ系」という言葉を使ってるわけだから。
 というわけで、この稿では、違ったアプローチを取る。

 さて、もしあなたが、何も知らずポンと「セカイ系」と言われたら、何を思い浮かべるだろうか?
 それをシミュレートすることで、「セカイ系」の実体を探ってみよう。

 最初に思うのは、まぁ「セカイ」とついてるんだから、大文字の「世界」と関係するお話なんだろうなぁ、というものだ。次に思うのは、それがカタカナの「セカイ」であり、その「世界」を語る中に、どこか皮肉な視点、印象がかぶっている、ということだろう。

 もしも「セカイ系」ならぬ「世界系」という単語があったとしよう。そうした作品は、多分、個人と世界の対立が描かれ、個人の成長を通して、世界を変革したり、和解したり、破滅させたりする、と言うものだろう。

 逆に言うと「セカイ系」というのは、上と似て非なるもの。
 つまり、個人と世界が対比されるんだけど、個人は成長しなかったり、世界も変わらなかったりする作品。
 あるいは世界が変革されるんだけど、その世界は、本来の世界と似て非なる、どこか偽物で、小さな閉じた「セカイ」だったりする。
 そんな作品である、と言えるだろう。

 物語は、本来、内的世界(個人)と、外的世界(世界)を近づける機能がある。その機能に、ツッコミを入れるのが、セカイ系と言っても構わない。

 「セカイ系」の、一応、中心近くにあると思われる「エヴァ」と「ブギーポップ」を見てみよう。

 「ブギーポップ」の場合、コスプレして、ご近所で悪の改造人間と戦っているという、非常にローカルな活動が、なぜか「世界の命運」やら「運命」やら「人類の可能性」とかと短絡される。この場合、ブギーポップにでてくる「世界」は、本質的にはご近所友達周辺の「セカイ」でしかない、というわけだ。

 「エヴァ」の場合、シンジは、「世界の命運」を背負わされる。が、その「世界」は、第三新東京市という作り物の「セカイ」でしかない。また、シンジは、そうした試練を経て、結局、セカイを変えるに至らず、本人も成長しない*1

 でまぁ、ややこしいのは、「個人と世界を近づける機能」は、ほとんどの物語が持っている、というかむしろ、物語の本質的な機能だったりする。一方、そこに「皮肉」を見出すのは、読者の主観だったりするので、その人の趣味と気分で、どんなところにも「皮肉」はあり得る。
 よって、広く見れば、あらゆる物語が「セカイ系」に入りうるし、実際、入っちゃってる。つまり、定義としては破綻している。

 最初にも書いたが、ここで分析してるのは、「セカイ系の受け取られ方」であって、定義ではない。「セカイ系」は、定義というより気分、流行なのだ。

*1:いや、あれは成長だ、とか、世界を変えた、という意見も成り立つが、従来の意味の成長、変革を否定してるのは間違いない

流行としてのセカイ系

 色々書いてきたが、気分としてのセカイ系を語る場合、一番重要なのは「登場人物が、世界とか運命とかについて、仰々しく語り合う」という点だろう。「セカイ系」という名前からは、そういうものが真っ先に連想される。「エヴァ」も「ブギーポップ」もそうだしね。

 で、流行のほうだが、そもそも「個人vs世界」というモチーフは、、子供向け、特に少年物のストーリーに定番であるといっていい。

 自分の力で世界が変えられたら、という欲望は、たいていの人にあるだろうし、そこにおいて、そのへんを満たす作品が生まれるのは当たり前だ。「少年が世界を救う」みたいなストーリーは、言うまでもなく定番だ。

 一方で、そういう作品は、やはり、どこか滑稽だ。どう頑張っても非現実的だし、それ故に無理が生じるからだ。後期ドラゴンボールのインフレっぷりって何よ、とかね。*1
 そしてまた、まじめに描こうとすると破綻しやすい。敵が「世界」という強力なものになればなるほど、それと戦おうというストーリーには無理が生じて、オチがつけられず途中で終わったり、破綻したりする。「幻魔大戦」とかね。

 そのへんで、「作者が個人と世界の戦いを真面目に描けば描くほど、受け手視点で滑稽さ、皮肉が浮かんでくる」という状況があるだろう。そういう意味で、そのへんをセカイ系に入れちゃいたい人もいるだろう。

 ただまぁ、それは余談で、流行としてのセカイ系からは、ほとんどの場合「幻魔大戦」は連想されないだろう。

 さて「幻魔大戦」等が破綻した訳は、「世界」という抽象概念は、結局、描写できないというところにある。期待を盛り上げるだけ盛り上げといて、ボスが登場しないわけで、破綻が運命づけられている、と言ってもいい。

 じゃぁ「世界」を描写する方法がないのかというと、そうでもない。抽象概念を描写するのは、SFの得意技だ。「時間」という抽象概念は描けないが、タイムマシンなら登場させられる。概念をガジェット化するのはSFが長年やってきたことだ。
 「世界」や「セカイ」に関することなら、P.K.ディックあたりが古典にして専門だろう。
 インナースペース物の名作である「世界の眼」なんかは、すごく「セカイ系」じゃないかと思う。あと新井素子の「……絶句」とか。が、まぁこれらも流行という意味では外れるだろう。*2

 流行としての「セカイ系」でいうなら、やはり「エヴァ」であり「ウテナ」であろう。アニメというジャンルにも、無論、インナースペース表現は昔からあったが*3、このあたりの作品が、インナースペースを描き出す手法を進化し、流行させたあたりが、「セカイ系」のニュアンスと重なるだろう。

 ライトノベルだと、やはり「ブギーポップ」。登場人物たちが、自分のトラウマを超能力=スタンド的に可視化して戦うのは、「セカイ系」としてよくできた仕掛けだ。

 このへんは、地雷犬さんが指摘するところの「直結型セカイ系」の流れなわけで、「自閉型セカイ系」にも、そうした流れがあると思うし、萩尾望都あたりから語ると面白そうなんだけど、いかんせん知識が足りないので止めときます。

*1:といいつつ。最近、愛蔵版で読んでるけど、後期は後期で面白いなぁとワクワクしてたりします。

*2:セカイ系」という言葉には、個人が大きな世界と格闘できるという妄想自体に皮肉な視線が向けられるニュアンスがあると思う。よって、ガジェットによって前向きに世界と対峙するタイプのSFとは一線を画するかもしれない。ただ、それを言うと、否定的なニュアンスを持つ後ろ向きなSFだって数多く存在するので、やっぱり流行という要素も大きいだろう。

*3:ビューティフル・ドリーマー」はセカイ系? とかね