こみパ

 長くなりすぎたので、日にちを繰り上げ。

更科:『こみっくパーティ』って、実はおそろしい話があって、『To Heart』のコミカライズは秋からまた始まるんですけど、一度終わってるじゃないですか。それに対して、『こみっくパーティ』のコミカライズはずっと続いてるんですよ。
東:え? あれ、まだやってるの?
更科:まだやってます。二〇〇一年末連載開始だから、そろそろ三年になるのかな。なぜかというと、『こみっくパーティ』で描かれているイデオロギーがオタクというか、同人業界の共同幻想的なルールとして機能してるからなんです。
 傍から見ていると、発売して何年も経っているから、『こみっくパーティ』のマーチャンダイジング的な商品価値自体はそろそろなくなってきているように見えるし、作品的にもやることはやり尽くしてるようだから終わってもいいはずなんだけど、同人業界での人気は根強いから。(中略)なるほどここがオタクというトライブ、楽園の思想的な中心なのか、と。

 犬威赤彦の「こみパ」が続いてる理由は、それが単なるマーチャンダイジング商品ではなく、漫画として普通に面白いからに他ならない。

 ギャルゲーの漫画化、アニメ化は、ゲームにおけるヒロインルート分岐の問題をどうするかが難しいのだが、「こみパ」の場合、テーマを一対一の恋愛ではなく、「同人、こみパへの愛情」にシフトさせることでクリアしている。
 これによって、単一キャラをヒロインとするのではなく、登場キャラ全員の機微、エピソードを細かく描けるようになったわけだ。
 3年続いたとはいえ、月刊誌ということもあり、まだコミックス4冊分。「作品的にもやることはやり尽くした」なんてことは、ない。実際、今月まさに詠美の話で盛り上がってるとこだし。

 ストーリーは、主人公・和樹他の成長物語というベクトルを持ち、原作のイメージを生かしたクオリティの高い絵、漫画力とあいまって、単純に良い漫画として評価されて良いと思う。*1

 無論、「こみパ」は、同人、アマチュアリズムへの共同幻想を刺激する内容だし、それも人気の秘密の一つだが、それだけで、「終わってもいいはず」の漫画が延命している、と、考えるのは、まぁ、目が腐ってる。
 なんでもかんでも、「オタクの楽園」のせいにするのは、被害妄想もほどほどにしとけ、と。

*1:評価は人それぞれかもしれないが、少なくともコミックが4冊出ても、別におかしくない程度には良いマンガだろう。

Fate

 その後、AIR話を経過して、Fateに。

東:(中略)ところが、『Fate』にはそういう工夫が一切ない。というか、ゲーム性がほとんどない。(中略)それじゃあ逆に、プレイヤーから自由度を奪うことがなにか作品のテーマに深く関係しているかというと、そういうわけでもない。
 そもそもゲームって、プレイヤーにできるかぎり自由度を与えるのが善だというジャンルでもあって、美少女ゲームは、そこに単一のエンドがある物語を乗っけるために、いろいろアクロバティックな手法を編み出してきたわけじゃないですか。『Fate』は、そんな問題意識なんか一切なく、美少女ゲームの形式だけ借りて、マンガやアニメをシミュレートしてるだけ、という感じがした。
元長:分岐としてのゲーム性を求めるものでもないと思いますけど。(後略)

 「できるかぎり自由度を与えるのが善」って、バカが好きな思想だよなぁ。んなわけないじゃん。
 少なくともコンピュータゲームの場合、自由度は必須概念ではない。
 コンピュータゲームの快感の元は、入力に反応して、音やら光やらが出るというインタラクティブ性にある。

 例えば音ゲーを考えてほしい。あれってのは、譜面通りにボタンを叩くだけの、基本的には自由度ゼロのゲームだが、だからといって、あれがゲームじゃないか、というと、違う。むしろ、あれこそがゲームの快感の本質に近い。

 ノベルゲームにおいても、実はクリックすることによって画面が反応・変化する、アクションゲーム的な快感が重要な位置を占めている、というのは、元長が別コラムで分析している。

東:『ガンパレード・マーチ』では戦いから降りることを選択できる。そもそも、本当の悩みどころは、ガンダムに乗るかどうかの選択にあるわけで、個々の戦闘で左に飛ぶか右に飛ぶかなんて選択は悩みとは言わない。そういう意味では、『Fate』の主人公は最初からガンダムに乗っているわけで、うまくいかなかったらバッドエンドというゲームでしかないわけでよ。これはたいへんな後退なんじゃないか。

 じゃぁ、たとえば、「グラディウスV」では、主人公は最初からビッグバイパーに乗っていて、前に進むしかない。うまく行かなかったらゲームオーバーというゲームでしかないんだけど、これは、たいへんな後退なんですかね?

 ゲームにおける自由度信仰を無意味に突き詰めるとそうなる。
 ガンパレやGTAの自由度の高さは面白いし、美少女ゲームにおいても、自由度を作って面白くするシステムの工夫があってもいいが、それを唯一絶対と崇め奉るのは、間違いだ。*1

 音ゲーにおいて譜面を押すのが楽しいように、ノベルゲームにおいても、クリックの一つ一つが快感を生むことが、一番のゲーム性なのだ。テキストと絵と音楽の組み合わせ。そのタイミング。それらが脳内で組合わさること。その計算が、一番重要な部分で、「ルート分岐」だけでゲーム性を語るのは、片腹痛い。

東:ササキバラさんは、ノベルゲームとはプレイヤーが責任という快楽を感じるゲームだと定義していたわけだけど、ここにはそんな高級な快楽は存在しない。

 わかってないなぁ。
 まず「責任という快楽」は、高級でもなんでもない。それはメロドラマを見て泣くのと同じ、生理的なボタンをどう押すかということだけのことだ。そして、疑似的な責任を感じさせる装置には、「自由度」も「ルート分岐」も関係ない。

 なぜなら、責任感を感じさせる仕掛けには、パズルや推理は必要ないからだ。
 極論するなら、選択肢はたった一つでいい。

「この娘を守りますか? Yes/No」

 これで十分だ。無論、Noはバッドエンド直行。
 Yesを押すしかない。そんなことはわかりきっている。 それでも、それまでの描写の積み重ねで、ここで「Yes」をクリックする時に、緊張する。「責任という快楽」を感じる。
 それこそが、ノベルゲーム(あるいは恋愛ゲー)の本質だ。

 『Fate』にルート分岐がないのは、そのためだ。どういう順番でプレイヤーに情報を与えるかをコントロールし、プレイヤーの心理状態を把握することで、最適の感情移入を行う、というシステムだ。完璧とはうまないが、うまく機能している。

 東は、「『Fate』の主人公は最初からガンダムに乗っているわけで、うまくいかなかったらバッドエンド」だという。
 これは、違う。
 『Fate』において、プレイヤーは、ガンダムに乗ることを(ヒロインを守ることを。正義のために戦うことを)自分で選択する。それは『Fate』の非常に重要な部分だ。

 無論、ガンダムに乗らないという選択は、事実上は存在しないのだけど、それでも、プレイヤーは「乗る」をクリックする、その儀式こそが重要なのだ。*2

*1:シェンムーとかな

*2:逆に言うと、ガンパレの場合は、「右に飛ぶか」「左に飛ぶか」の選択肢こそが重要になる。なぜなら、その結果が、友軍の(=クラスメートの)生死を分けるからだ。囲まれた滝川を助けるために、無理に敵軍の中に突っ込もうとする瞬間に、「責任感」が生まれる。逆に言えば、そういう緊張感を前提に、整備員プレイやナンパプレイがあるわけで、「ガンダムを降りられるから自由度が高くてエライ」というのは、間違っている。実際、ガンパレプレイして、「パイロットプレイをするかどうか」で、本当に悩むプレイヤーなんていない。「絢爛舞踏達成したから、今回は整備員プレイで」とか、そういうレベルだろう。それに対し、「滝川機を助けるために右に飛ぶか左に飛ぶか」は、本気で悩むポイントだ。偉そうに言ってるけど、ガンパレプレイしたのか?

Fateの内面

 東と更科は、Fateには、主人公の内面もなければ葛藤もないと説く。

東:(Fateの主人公には)内面がないし葛藤がない。『機動戦士ガンダム』以前の少年の造形だと思う。むしろ『宇宙戦艦ヤマト』に近いでしょう。古代進ってなにも悩んでなかったじゃない(笑)。なんのために宇宙戦艦乗ってんだとか、ヤマトって無意味なんじゃないかとか、地球なんて滅びちゃえばいいとか、古代は絶対思わない。一九七九年に『ガンダム』が現れて以降、そういう能天気さは通用しなくなって、その屈託こそがオタク的想像力の強度を支えてきたと思ってたんだけど、『Fate』はそういうのをすべて吹き飛ばしている。

 この人たち(東と更科)、本当に『Fate』をやってるのかどうか、不安になってきたんですが。
 『Fate』の主人公、衛宮士郎は、戦いの意味とか、自分の存在とか、正義の意味とかについて、悩み、葛藤するし、それに対するテキストも多い。

 『Fate』は王道な熱血少年漫画的ストーリーなので、悩むだけ悩んで吹っ切れて、最後はバトルで決着する展開にはなっている。
 だから、たとえば、シンジのようにいつまでも引きずったりしない。解決不可能な問題の前で苦悩し、努力が無意味となる、なんてこともない。

 多分、東は、Fateのそういうノリが肌に合わず、衛宮士郎の悩みにも感情移入できなかったのだろう。だけど、だからって、衛宮士郎が、全くアイデンティティに悩みのない能天気かというと、それは、いくらなんでも違う。批評家なんだから、感想と事実は区別しような。

 だいたい何度も書いているが、エヴァ以降(あるいはガンダム以降)すべての主人公が、うじうじ悩んでいたわけじゃない。爽快な青春熱血王道ストーリーの路線は、切れ目無く存在する。衛宮士郎より能天気なヒーローは、いくらでも存在したし、これからも存在する。*1

東:そいうですね。『エヴァ』以前というか、『ガンダム』以前への回帰ですからね。しかし、近代を乗り越えてポストモダンになるとむしろプレモダンに回帰する、といったクリシェはよく聞くけど、今回ほどそれを実感したことはない。美少女ゲームで実感するとは思わなかったけど。

 東の言う、ポストモダンとやらの、視野の狭さっぷりが、ほんと、よくわかりましたよ。

*1:雫=エヴァ以降ではなく、ガンダム以降、ということでいいなら、同級生の主人公。それにランス。初期エロゲには、諸星あたる的、精力絶倫ナンパキャラという類型が多かった。そういうキャラは今でもある。ランスはVが出たばっかだしね。エロゲに限らなければ、もっといろいろ。例をあげると切りがないが、ガンダム以降なら、ドラゴンボールなんかどうだ。悟空は、それこそ、古代進より悩みがない主人公なわけだが、DB自体は、オタク的想像力の一角を占めるだろう。

月姫とほしのこえ

 ちょっと戻って、「オタクの外部」について。

東:『月姫』と『ほしのこえ』はほぼ同時に出てきて、両方とも同人からのメジャーブレイクというか、新しいオタクのありかたとして注目されたわけですね。けれど、いま振り返ると、この両者は対照的な方向に行きつつある。新海さんの場合、次回作の『雲のむこう、約束の場所』を、基本的に個人製作のスタンスを変えないまま劇場公開することを選んだわけで、オタクの外部をマーケットにしつつ、方法としてはインディーズ色を保つ方向を目指している。TYPE-MOONは、マーケットをオタクの内部に限定した上で、方法はメジャーなコンテンツビジネスそのものでしょう。どちらがいいと思うかは人それぞれだと思うけど、僕は新海さんの試みの方に断然興味がある。オタクだけを相手にする商売って、どうも興味がもてない。

 参考に、波状言論15号の鼎談も載せておこう。

西島:僕は最初の頃から言ってますけど、『アメリ』(2001年)(註13)並にヒットしますよ! 絶対! 浮かぶもん、スペイン坂とか並んでる女性客の姿が。
(中略)
新海:広げようと思って作ってはいます。20代半ばのOLとか。
東:そこが主なターゲットですか?
新海:いや、主なターゲットは、やっぱり『ほしのこえ』を見てくれたひとたち、美少女ゲームのオープニングムービーを見てくれたひとたちって明確に決めています。そこにまずは届いてほしいとは思っています。ただ、DVDの数はそれでは頭打ちだし、広げたいっていう気持ちが強いんですよ。

 「オタクの外部をマーケットにする」という言葉について、だ。

 「アメリが好きそうなOL」というのは、確かに、わかりやすい外部だ。そうした人間を獲得できたら、それはそれで素晴らしい(それが難しいことを知っているから、新海は、主なターゲットを慎重に定めるわけだが)。

 でも、外部というのは、それだけじゃない。

 東は、「月姫がオタクに閉じている」というが、「月姫をプレイしてオタクになった人」に関しては、全く、思い至ってない。

 オタク作品の中には、内輪の閉じた了解に基づいて作られた、市場を食いつぶすだけの作品がある。そういう作品は「オタクに閉じている」と言ってもよかろう。
 だが、「月姫」も[fate」も、なんだかんだいって、確実にエロゲファンを増やした。それまで、オタクでなかった人間のいくばくかを、オタクに変えた。

 それというのは、「オタクの外部をマーケットにしている」ことであり、オタク市場の中に、新たな血を呼び込むことでもあるのだ。*1

東:裏返せば、TYPE-MOONが新海さんみたいな距離感を持ってくれればよかったのにな、と少し残念に思ってるんですよ。コミケ的なネットワークを背景にして、美少女ゲームが生み出した精神性や世界観をもっともきちんとメジャーに届けようとしている人が、ゲームメーカーではなくアニメ作家だ、というのは実は皮肉なことですね。

 皮肉なことはなにもない。表層のイメージ(西島の言うところのアメリとか西武文化とか)に踊らされて、何も見えていない阿呆がいるだけのことだ。

*1:このへんは、TYPE-MOONに限らず、売れているオタク作品全部に関して言える。だからTYPE-MOON単体の評価としては、肯定的すぎるかもしれない。ただ、「アメリなOL」的な市場だけがオタクの外部、という、硬直したオヤジ思想はどうにかならんものか。飯野賢治とかに騙されてサブカルクソゲー作らされた90年代は、もう終わっただろ?