今回は引き続き、「表象可能なもの」と「表象不可能なもの」について。
 人間は、目の前にあるものを知覚できるだけでなく、その背後にあるもの、時にはありもしないものについて考察できる。それはなぜか? どのように考察できるのか?

 東の理論によると、近代では、それは哲学によって言語の性質を理解しようと行われ、現在ではそれは、認知科学によって行われているという。

経験=表象可能なもの(シミュラークル)と経験=表象不可能なもの(データベース)は、計算(コンピュータ)という新たな第三項で繋がれることになる。

 まず。
 認知科学以前から、科学というのも、「表象不可能なもの」を表象可能なものの中に繰り込む学問であった。
 無論、哲学は、科学においては不可能とされる領域で、そうした考察を続ける学問である。
 認知科学において、科学の側から、これまで哲学が対象としていたフィールドに近づくことがあったが、それ自体は認知科学が単純に哲学に取って代わったことを意味しない。
 認知科学で明かされる事実があれば、そこを出発点として、さらに哲学的な問いが存在するだろう。

 単純な例をあげれば、かつて宇宙について考察するのは哲学・神学の領域だった。
 現在、科学は、宇宙について昔より多くのことを知った。
 だからといって、宇宙の意味について考察する哲学が消え去ったわけではない。科学的事実から始まる考察は、いくらでも存在しうる。

そして、近代のエピステーメーのなかにいる哲学者は詩と隠喩と言語学に接近し、ポストモダンエピステーメーのなかにいる認知科学者たちはコンピュータとシミュレーションと数学に接近する。その差異は、個人の資質というよりも、時代の文化的構造が決めている。

 「時代の文化的構造」ねぇ……。
 コンピュータ他諸科学の発達により、認知科学が意味のある成果を出せるようになった、という時代的背景のことであるなら構わないのだけど。

(中略。情報という)新しい概念のおかげで、ポストモダンの知=計算中心主義は、近代の知=理性中心主義がどうしても手放せなかった「人間」の概念をあっさりと放棄することが可能になった。
 近代では言葉と理性が表象不可能なものを生みだし、ポストモダンでは情報と計算が表象不可能なものを生み出す。前者の知は詩人=哲学者を生みだし、後者の知は認知科学者を生み出すが、言葉は人間が使わなくては存在しないのに対して、情報はそれ単体で存在する。近代とポストモダンの、あるいは19世紀と21世紀の文化的世界のもっとも大きな違
いは、ここに宿っている。

 「表象不可能なもの」の全てが、情報・計算によるデータベースで済むわけじゃなかろうに。認知科学でコンピュータぶんまわしたからといって、ヴィトゲンシュタインの悩みが解けるわけでも無効化されたわけでもない。
 サイバネティクス認知科学は、単純な心身二元論を無意味なものと葬り去るかもしれないが、かといって「人間」の概念が、あっさり手放されたわけじゃない。むしろ、情報が揃った今こそ、「人間」についての哲学的考察も必要となるだろう。

 情報という概念は、事実上20世紀に生まれたといってもいいし、20世紀に巨大な躍進を遂げた分野だが、「近代とポストモダンの文化的世界のもっとも大きな違い」ということで、東氏が、具体的にどのようなものを想定しているかが、気になる。

 まぁ調子のいいことばっかり言ってるんじゃねぇよということだ。

 相変わらず、西島氏が晒し者になってるんだけど、いいの、これ?
 西島氏は、「ほしのこえ」より前に、自作アニメを作っていたそうである。

エヴァンゲリオン』へのアンサーとして制作したのが『video!』(中略)アニメーション表現としてオタク的な文脈をきっちり押さえているんですが、映像のテイストとしては、微妙なおしゃれ感覚、というかアートフィルム的なものが入り込んでいて、その折衷みたいなものです。
(中略)
 だから、クラブとかに行っている兄ちゃんから見ても寒くはないはずだし、と同時に、オタクだって、ガイナックスのやってきたことを踏まえて作っている映像だから、目をそらすことはできないだろう、全方向への対応性を考えた上で作られた映像なんです。けれど、あんまり反響もなくてですね。

 hakagixの時にも書いたが、どうして、この人たちは、相反する層を同時に取り込もうとするのかなぁ。

 例えば、「三歳児の女の子と五〇代のおじさんを同時に視野にいれた」作品を作るのが難しいというか、ほとんど無理、というのは、誰にでもわかるはずだ。
 「オタクとクラブの兄ちゃん」の両方を一辺に取り込もうというのも、それと同じくらい無理だと思うんだが。

 どっちかを中心にすえて、オタクの人に、少しでもクラブ文化とかに興味を持ってもらうための作品とか、その逆、というのならあり得るだろう。が、裏を返せば、それ以外は難しい*1

西島:だから、『凹村戦争』は、新海さん的なアプローチを試みているのが半分、SFに対するオトシマエというか、文化的な位置づけが半分、という感じです。僕は、たぶん、文化的なセンスがいいひとなんですよ。自分で言うのもなんですけど。バランス感覚がいいんです。だから、いろんな方向に気配りをしてしまうわけですが、僕から見ると新海さんの作品にはそういうものがまったくない。ないがゆえに、遠くに飛べている、というのが『ほしのこえ』を観て思ったことです。

 文化的なセンスがいい人なんですか。へーえ。
 いや西島さん、それは文化的なセンスでもバランス感覚でもなんでもないですよ。
 あなたは要するに、オタクに魅かれながらも「オタクかっこ悪い!」と思ってる。
 だから、その格好悪さを中和するために、「おしゃれ感覚」を盛り込もうとする。
 そこで当のオタクを見下してるから、そっぽ向かれる。

 それだけのことですよ。*2

東:(新海は)ガイナックスに影響を受けて、日本ファルコムで訓練され、いまでは美少女ゲームのOPも手がけている。けっこうわかりやすい線上で出てきたひとであるにもかかわらず、そういうサブカルチャーの重みからは自由に作品を作っている。

 いやなんというか。
 ガイナックス日本ファルコム美少女ゲームというオタクロードで生きてきた人間が、どうしてサブカルチャーに縛られなきゃならんね?
 それは西島みたいな、「オタクかっこわるい」と思いこんでるオタクに限られる現象だって。

東:いわゆる大塚さん的、というか新人類世代の一部の見方によると、僕たち団塊ジュニアは、ひ弱で物語消費に手なずけられやすく(笑)、先行世代が用意した想像力をリミックスして楽しむぐらいしかできないということになっていた。ところが、新海さんはそういう重みからとても自由なんですね。

 いっちゃぁ悪いが「ほしのこえ」は、まさしく、先行作品をリミックスして楽しんでる作品だと思うんだが。
 西島みたいに「オタクとおしゃれの統合を!」とか余計な邪念がないだけで。

東:それにしても、普通、ストレートな感情的表現を好む作家には天然のひとが多いと思われている。ところが新海さんはそうではない。叙情的な作家の見方が、新海さんと出会って変わりました。
新海:単純に一つの技術だったりもしますからね。その叙情っていうのは。

 「ほしのこえ」は、様々な意味で、計算された、言い方をかえれば、「あざとい」作品だ。
 技術的に練られた叙情。ストーリー構造の一般性。
 先行作品へのレスペクトを盛り込みオタクを引き込みつつ、それらへの言及を過剰にしないことでオタク以外も排除しない作り。

 疑うべくもなく自分の感性を出しつつ、一方で、非常に職人的な仕事をこなしている。
 そこが話題となった所以であろう。

東:天然ではないにもかかわらず叙情性を恐れない。これが新海さんの新しいところなんでしょうね。結局大塚さんもそこに驚いたんだと思います。

 いや別に新しくもなんともないから。物を作る人にとって叙情が技術の内なのは、ギリシャ悲劇の時からそうだから。
 ナイーブに見える物創ってるやつがみな天然とか、天然じゃないやつはナイーブなもの作れない、とか、いつの時代の人なんですか、東さんは。

*1:ビートマニアが流行った時、ゲーセンでゲーマーと本職のクラブDJがすれ違う、みたいなこともあったらしい。平成仮面ライダーは、変身グッズで子供を、イケメンで母親をという戦略で、それなりに成功を収めた。それくらいうまい仕掛けをするのであれば、まったく不可能ではないのだろうけど

*2:あるいはそれは、様々な分野への目配りがあるが故に、自分の中のオタク性が相対化されている、と言い換えてもいいかもしれない。でも、エンターテイメントというのは、基本的に、相手の自己像を肯定するものであって、相対化しても、誰も喜ばない。自分の中の相対性は、きちんと制御しないと、小学生つかまえて説教するような作品しかできあがらない。もちろん自主制作だからエンターテイメントでなくてもいいけど、エンターテイメント性を放棄した作品に反響がないのは当たり前だ。