動物化するオタク系文化 でじこ

 他の部分は、基本的に「動物化するポストモダン」の要約なので、特に付け加える感想はなかったりします。

 ただ一部面白い記述もある。「でじこ」に関しては、

 さらに言えば、このでじこのデザインは、そのような変化にただ寄り添っているだけではなく、それを茶化しパロディ化する一種の悪意にも支えられています(中略)そういう自己言及的な部分まで考慮すると、僕はこのでじこが、九五年以降の「ポスト・エヴァンゲリオンの時代」を象徴する典型的なキャラクターだと考えています(中略)『デ・ジ・キャラット』の悪意はズバぬけている(笑)(p32)

 と書かれており、本日記で指摘した問題点を、既に意識してることが伺えます……じゃぁ、なんで「動物化するポストモダン」にそう書いてなかったのよ、と思うわけですわ。

 まぁ東氏が、「このでじこの悪意を見抜いたのは俺だけだ。バカなオタクどもは、ころっと騙されてるぜ」みたいな安直なことを考えてるわけはないと思いますが、一応、書いておくと、オタクというのは、昔から自己言及的なネタを好み、自虐ネタも作り手の悪意も大好きです。

 オタクに限らず、集団の構成員が、わざと自分の属する集団をさげすんでみせるというのは、連帯を確認する方法論として、一般的なものですよね*1

 ともあれ、その悪意こそが、「でじこ」普及に大きな意味を持っていた、という重要な記述が「動物化するポストモダン」では、すっぽり抜けています。この章自体は、「動物化するポストモダン」の発売前に書かれた(講演された)ものなので、大きな謎が残る。いったい彼はなぜ、そこの記述を抜かしたのでしょうか?

  1. オタクはでじこの悪意に気づいていないと信じていたので、オタクの消費モデルとしては、でじこの悪意を説明する必要がないと考えた。
  2. 何か他の理由。

 実はこの、悪意を受け取れること……つまり、自分の動物性に自覚的であるかどうかというのは、東氏の「動物化」理論において、大きなキーワードになっています。

*1:評価の高い野球選手が、「俺(達)は野球バカだから」というと、他の野球選手は、うんうんとうなずくわけですが、そこで野球を知らない外部の人間が「あ、野球バカだ」と言ったら、怒られるでしょう。野球に限らず、構成員が、自発的、自覚的に所属してる集団の場合、こういう身振りは、たいてい成立すると思います