『存在論的、郵便論的』からより遠くへ    2:象徴界とかなんとか

 東氏は、幾原氏の言葉を引いて、「今の若者は、恋愛と、世界の終わりだけしかわからなくて、間がすっぽ抜けてる」と喝破します。うん、これも、とってもよくわかる。

 それを、東氏はラカンの概念の「象徴界」というのを持ち出す。「象徴界」とは……と言いだすと、本が何百冊も書けるんでしょうが、ここの項目の東氏の文章を読む限り、「自分」という身近なものから、「世界の終わり」という、すごく遠いものの間を、言葉で埋めていく能力である、と理解できます。

 例えば、自分のすぐそばには、肉親とか友達がいて、その先に住んでる団地があって、街があって、会社があって、国があって、国の集まりがあって、みたいな、そういう部分を、ちゃんと言葉にして認識してゆく能力である、と。

 で、「大きな物語」が機能不全に陥ったせいで、「象徴界」が枯渇して、言葉が衰弱してきている、と。そのせいで、個々人の入ってるタコツボを越える言葉が無くなってきている。

 だから、アニメや漫画、小説とかでも、すごく身近な話と、そこからぽーんと飛んで「世界の終末」とか、そういう話が、受ける*1

 自分……と抽象的な「世界」の間を埋められない、という状況があることは納得できるし、それを示す構造として、象徴界という言葉を導入するのは、とても納得できます。

*1:例えば、幾原氏の「少女革命ウテナ」は、言ってみれば学園の中から一歩も出ずに、生徒会と儀式的な喧嘩してるだけなんだけど、それが「絶対運命」で「世界を革命する力」だと言い張る。上遠野浩平の「ブギーポップは笑わない」だと、狂言回しのブギーポップは、ただの学生で、変なコスプレしてご近所で悪のミュータントと喧嘩してるだけなんだけど、それがなんと、世界を崩壊の危機から救ってるらしい。もちろん、この2作とも、そういう出発点を逆手に取って、自分と世界の「間」を埋めてゆく誠実な物語作りをしている良作です。ただ、そういうポイントが受ける、という事実があるのは確かですな。