『存在論的、郵便論的』からより遠くへ    3:それって間が無いんじゃない?

 ただ、問題なのは、ここからです。

一〇代の少年が、「なぜひとを殺してはいけないの?」という問いにいきなり行ってしまうわけです。ここまでの話から分かると思いますが、この問いに既成の言葉で答えても意味はありません。そもそもそのような疑問は、言葉(象徴界)の力が衰えているから出てくるのですから。

 これって、俺の感覚からすると、間をすっとばしているんですよ。一〇代の子が、そういう問いを発するとして、彼にかける言葉がないとして、それは、すごく身近な理由から、社会全体の根深い構造由まで、様々なレベルの構造があるはずだ。

 例えば、お母さん、お父さんとの関係の中で、彼が見るテレビ番組の中で、学校の友達との関係の中で……そういう「間」を、きちんと言葉で埋めようと努力して、その最後に辿り着くのが「大きな物語の不全」であり「象徴界の衰退」なんじゃないですかね?

 一〇代の子供じゃない以上、言葉のエキスパートである以上、埋められるところを埋める努力はしようよ。

 それを、すっ飛ばす態度が、どうにもぞんざいで、粗雑で、はっきり言って気にくわない。「そもそも象徴界が衰えているから」じゃないだろ、という。

 この「すっ飛ばし」が、これまで、俺が抱いていた、様々な疑問の元になります*1

 以降、夜にでも更新します。レジュメとか。

*1:そういうことこそ『存在論的、郵便論的』に書いてあんじゃないの? とも思いますが、まぁ、そのうち読むとして。書いてあったら、あやまります