大きな物語の不全って結局ナニよ?

 まぁ、そんなわけで、拙い言葉で、少しは「大きな物語の不全」を埋めてみます。

 さてさて、世の中が複雑になればなるほど、自分のできることが相対的に小さくなる、と言えるでしょう。

 すっごく昔の、小さな村の話。おっとうは毎日木を切りにゆく。こういう世界だと、子供も、おっとうが木を切るのが、誰の、どんな役に立つのかが、はっきりわかる。

 ちっちゃな村だと、社会参加も、わかりやすい。村長さんと助役さん、それを取り巻く人たちがいて、どんな利害があるのかが、よくわかって、その中で、自分ができることも、はっきりわかる。現村長に投票したら、あの子が嫁さんにもらえる。対立候補なら、うちの山の縄張りを増やしてくれるか。さぁ、どっちだ、みたいな。

 けれど、これがまぁ、世の中が大きくなってると、お父さんは会社に行って帰ってこなくて、何の仕事してるんだかわからない。たとえ見たとしても、書類を右から左に動かしてるだけで、誰の、何の役にたってるのか、さっぱり見えてこない。お父さん本人だって、実感がないかもしれない。

 社会参加も大変だ。問題がたくさんあることは、はっきりしてる。環境問題も人口問題も外交問題も、いろいろ複雑な問題が様々に絡み合って、どこから手をつけたらいいのか、はっきりしない。それなのに、できることといったら、そうした問題を解決するどころかロクに理解もしてないような、欲ボケ共の中から、一人選んで○するだけ。

 やるべき問題は、山積みなのに、実際に選べる選択肢は、ほんの、わずか。そら「社会全体に対する意識」なんて、持ちにくくなりますな。

 上は「小さな村」と「大都会」で比較しています。ほんとに世の中が素朴だった時代はともかく、1970年代くらいは世の中ずいぶん複雑になったのも関わらず、90年代とかに比べて「大きな物語」が生きていた。これは何故かというと、要するに「金とヒマがなかったから」です。

 人間は、基本的には、一人で好き勝手に生きたい動物です。けれど、そうするには、コストがかかる。お金の余裕がないうちは、いやでも、みんな隣同士助け合って暮らす必要があった。そういう共同体への参加を拒めない。拒むためには一人で暮らす必要があり、それは金銭的、時間的に不可能だったからだ。

 だから、例えば、本当だったら難しくて複雑な政治も「商店会」単位とか「会社単位」「団地単位」とかで、「ウチは、あのセンセイに票を入れましょう。こんなのもらっちゃったし」という単純な構造に置き換えられる。これなら、まぁ、参加する気も起きる。

 お金がないから、例えばテレビも一家に一台(もっと昔は、それ以下)しかない。だから、みんな揃って同じ番組を見る。そりゃぁ視聴率も上がりますわな。

 その後、日本が経済的にだんだんと潤うに従い、金とヒマが増えると、技術の進歩も相まって、一人で好き勝手に生きられるようになってくる。

 昔は、一人暮らしというのは、家事炊事の時間だけで、全部なくなってしまうので、ほぼ不可能だったけど、今なら全自動洗濯機もあればコンビニ飯もある。技術の進歩とニーズの増大で、どんどん安くなってゆく。

 一家でテレビが複数買えるから、番組も、子供用、お父さん用、お母さん用、その他の層に、分化してゆく。好きな番組、好きな趣味を、それぞれが追求することが可能になった。選挙に票をいれるのも、別に、会社の意向を気にせず、自分で入れてもよくなった。

 そうやって、自由にはなってみたけど、自由になったからといって、権力が増えたわけじゃない。日本人一人一人の権力は、一億分の一の重みしかない。それなのに、社会の物凄く複雑な構造を、一人一人が受け止めなくて行動しなくてはいけない。*1

 自分でなんとかなるものなら、ちょっとは勉強しようという気もしますが、とにかく複雑で、できることも大してないとなったら、そりゃぁ「社会全体」なんて、どうでもよくなる。

 これが、「大きな物語」が崩壊した、ということでしょう。

*1:というのは、都市部の話で、田舎は、状況が違うところも多いでしょう。まぁ都市部から始まって、そういう傾向が大きくなったのが一つ。また、そういうライフスタイルもあるよ、という情報がもたらされることで、共同体に不満がつのり、やっぱり「大きな物語」が崩壊するわけです。