昔は良かったって言えるわけ?

 東氏の言葉だと、昔は「象徴界が充実」していて、一人一人がきちんと主体的に言葉を通じて、相手とのギャップを埋めようとしてたわけだけど、今は断片化されたタコツボ言語を、一人一人が「おしゃべり」として消費していくに過ぎない、ということになります。

 いや、それは違うんじゃないかと。

 価値観の違う間を、きちんと埋めようとする努力は、今も昔も、本当に大変です。だから人間のするコミュニケーションなんて、そのほとんどが「おしゃべり」です。

 昔は、たまたまみんなが大きな一個のタコツボに入っていた部分が多いというだけで、タコツボを越えようとする努力、意志、想像力なんてのは、今も昔も、滅多にない貴重なものでしょう。

 俺が考えた「大きな物語の崩壊」のモデルなんてのは、みんなわかってるだろう、単純極まりないものですが、でも、例えば、そのレベルのモデルにでも一度戻って説明しようとしないせいで、そのへんの認識が「昔は良かった」で終わっている。

 例えばオタク世代論において、「昔のオタクは社会とつながろうとしていたけど、今のオタクは違う」というのは、そのへんを無視している。「データベース系」の消費は昔っから行われていたし、感動なり萌えなり性欲なりを、動物的に消費するのも昔から。

 結局のところ、今、我々は、大きな情報と、大きな自由を手にしている。行動力だって、本当のところは上がっているはず。

 ただ、情報が増えたことで、「社会全体」のあまりの複雑さ、巨大さ、不透明さも、はっきり見えてきた。

 情報が増えたことも、自由が増したことも、それ自体は良い方向の変化のはずです。また、戻しようのない変化だ。

 じゃぁ、その不安に潰されないためには、どうしたらいいか、ということですね。