年表によらないオタク世代論
東の定義するオタク系文化の世代変化は、一部納得できる部分もある。が、そうした変化を、狭い意味での世界のポストモダン化でなければ説明できないか、というと、別問題である。ソ連邦が崩壊したから、オタク第3世代が生まれた、という仮定は、本当に必要なのかを考えてみよう。
娯楽の一番基本的な形は、単純な動物的快楽であろう。アニメならさしずめ「可愛い女の子/すごいメカがぐりぐり動く」というものだ。
で、いつの時代も、そうした単純な動物的快楽だけでできているものは、「子供っぽい」として回りからバカにされるものだ。
なぜ、バカにされるのか。前、日記に書いたことだが引用しておこう。
人間には、自分のしていること/考えていることを、周りの人間に認めて欲しい、という欲求があると思う。なんなら、「大きな物語=社会規範」と言い換えてもいいけど、これは、時代を問わず、そうだろう。趣味であれば、同好の士は、欲しい。
一方で、人間は、周りと違うところを評価されたい、とも思っている。「君は、他の人と違ってすごい」と言われたいという欲求は、これも時代を問わず、そうだろう。
この二つを、言い換えると、共通した価値観の中で、他の人より高く評価されたいわけだ。これは、人間の基本的な性質であって、昔から現在まで、ほとんど変わらない、としておく。
これは、自分が評価してほしい点について書いたものだが、逆に言うと、自分が軽蔑する対象についても同じことが言える。
まず、「大勢に自分を認めて欲しい」気持ちは、自分と違う小集団を侮蔑することにつながる。その小集団は自分と違う価値観を持っているし、また、小集団を侮蔑することで団結できるからだ。
次に、動物化した欲求は、皆が持っているものである。よって、その皆が持っている欲求に自分の多くを割くことは、その人が他人より優れた点がないことを認めているとみなされ、それも侮蔑の対象となる。
くどくどと書いたが、まぁ、少数のマニア集団が幼稚にみえる快楽をありがたがってたら、そりゃ軽蔑されるよな、ということだ。*1