巻頭コラム第2回である。
 「旧作新作かかわらず、面白そうな作品を見かけたら貪欲に書き散らす」(創刊準備号)とあったので、散漫な記事であったら困るな、と心配していたのだが、その気遣いは無用であった。

 今回の記事は、ファウストの「メタリアル・フィクションの誕生」、ゲームラボの先日のマトリックスの批評に連なる、「何故、人はメタフィクションに、リアリティを感じるか」というテーマの掘り下げである。
 具体的には、映画「アイデンティティ」の批評という形を取る。内容に踏み込んだ批評をしているので、完全なネタバレ記事である。この日記も必然的にネタバレとなるので、見る予定のある方はご注意。

 まず苦言。

しかし僕は、その夢落ち(筆者注:映画「アイデンティティ」のオチ)に、『ファウスト』連載の主題に繋がる感覚を見た。この連載は(もう原稿用紙150枚も書いたのに!)まだ本論に入っていないが、僕がそこで論じようとしているのは、シミュラークル化というテーマ(世界が虚構としてしか感じられないというテーマ)と、メタフィクション的構成(世界を見る私に焦点を当てる構成)が重なるとき、そこには「ゲーム的リアリズム」とでも呼ぶべき新しい現実感が立ち上がるのではないか、といった問題提起である*1

 ファウスト2号の「メタリアル・フィクションの誕生」でも、まだ本論に入っていないらしい。「メタリアル・フィクションの誕生」を楽しみにファウストを買ってる読者としては、早いとこ本論に入ってほしいです。いやほんとに。

 さてさて、その中身だが……(超ネタバレ注意)。

1.映画「アイデンティティ」は、神秘的な偶然から10名の男女が閉鎖空間に集まり、そこで不可思議な殺人事件が起きるというストーリーである。
2.実は、この10名の男女は、多重人格者の連続殺人犯の個々の人格であり、現実世界では、彼は、精神科医のセッションを受けている。「閉鎖空間」は、殺人犯の心の中のドラマであり、「不可思議な偶然、殺人事件」は、精神科医による誘導であった。
3.ここで精神科医は、現実の殺人犯および殺人事件を解決するために、虚構の人格に介入し、ある時は助けを求める。
4.実はこれは、ポストモダン社会においては無数に存在する、虚構の人間とのコミュニケーションが現実を変えるという例に関連している。

 ほぉ、どう関連してるのかな? と思ったら、

 ……といったところで、今回もすでに規定枚数を大きく超えている。結論だけを書き飛ばすつもりが、またドツボに入ってしまった。飛ばしすぎて体力とネタがなくなるのも困るので、続きはでは2週間後に。

 う〜む。
 あんまりケチケチしないで、もうちょっとネタを投入してほしいものだ。次号に期待。

*1:筆者注:言うまでもないが、「世界を見る私」に焦点が当たってなければ、「世界が虚構としてしか感じられない」テーマは、まず描けないだろう。これは要するに、「主人公/見る側が感情移入するキャラクターが、世界を虚構として感じるテーマの作品」というのを、面倒に言い換えているに過ぎない