今回の東氏(id:hazuma)のコラムの内容は「メタフィクションは、なぜ、人を引きつけるか。それは、現実の世界がメタフィクション化してるからだ」というもの。以下は、その要約。

 メタフィクションというと、よく物語構造への批評だとか、内輪受けの自慰行為だとか言われるが、それは正しくはない。

 今の世の中、絶対的に正しいとされるものなどなく、様々な事実には、様々な視点があり、様々な読み解き方があり……つまり、現実自体が、様々な姿を見せている。
 その実感を素朴に描けば、それだけでメタフィクションが生まれるし、受け取る側も、そこにこそリアリティを感じる。それだけのことだ。

 竹田や加藤のポストモダニスム批判では、ポストモダンによって「作者」や「社会」や「国家」や「人間」や「作者」の概念が変化したことを前提としているが、それも同様におかしい。それらは、デリダフーコーが否定したから変化したのではなく、社会の流れとして変化していたのを、ポストモダニスムが追認したに過ぎないからだ。

 ……だそうな。
 言ってることには同意できるのだが、これで終わりというのは、いくらなんでもひどすぎる。

 そうは言っても、メタフィクションなら、なんでもリアリティを感じるか、というと、そうではない。リアリティの欠片も感じない、クズ作品は山ほどある。

 もっと細かいところで、どんなメカニズムで、人はメタフィクションにリアリティを感じるのか? それは、我々が持つ社会のイメージに、どう関わっているのか。そこが重要だろう。

 前回は、映画『アイデンティティ』を題材にして、「虚構の人間とのコミュニケーションが現実を変える」というところで終わったわけで、当然、その仕組みについての言及を期待していたのだが、その話は全くなし。聞きたいのは、そこなんだってば。

 東氏には、文章を書いたあと、推敲することを、お勧めしたい。思いついたアイディアを書き散らし終えたら、それらを分類し、整理し、並び替え、使えるものを残し、使えないものは削除してストックに回し、各連載単位で意味が通るようにしてほしい。