佐藤が、根本的に間違っている点がある。

 日常と非日常の往還は、長編物語を作る時の基本的なフォーマットの一つであり、それは失われるようなものではない。

 アンドロイドと狐が同一線上に存在する世界設定なら世界設定で、その世界の中で主人公は、日常から非日常に遭遇し、また日常に帰還する。というか、長編の場合、そうしないとお話が保たない。

 「KANNON」でも「To Heart」でもなんでもいいが、ギャルゲ的な日常が繰り返し印象づけられるのは、それが破られると効果的だから、という意味もある。
 毎朝、幼なじみが起こしに来てくれるから、起こしに来なくなった時に喪失感があるわけだ。ギャルゲ的な日常はコントラストとして意味がある。*1
 一方、二次創作の場合、短いものがメインなので、こちらは「日常と非日常の往還」とかをするとページがなくなってしまう。そういうものには向いていないので、「日常の一コマ」的な作品が多くなる。

 つまり、ギャルゲ的リアリティにおいて失われたのは「世界設定」だけであって、ほとんどのゲームにおいて、日常/非日常の緊張も、通過儀礼も、ストーリーの中には存在しているのだ。*2

 無論、消費者が最終的に受け取る印象や、二次創作およびそこから派生する空間においては、佐藤の言うような日常/非日常の境目のない世界が存在する。
 ただし、緊張感のある原典が面白かったからこそ、そういう世界が生まれる、という面を忘れてはならない。

*1:逆に言うと、たいしたストーリー、ボリュームがなくて、連作短編的なゲームであれば、「日常、非日常の往還」はなくても成立しうる。いわゆる抜きゲーとかには、そうした作品も多い。

*2:それがないせいで、駄作、失敗作となったものなら数多い。