さて、佐藤の「現代ファンタジー」は、もう一度引用すると、以下のようなものである。

 こうした「ジャンル崩壊以降のジャンル」を特徴づける世界観を、私たちは広い意味で「現代ファンタジー」と呼んで構わないだろう。そこではもう異世界/現実世界という二項対立は機能せず、作中人物は「異界往還譚」という通過儀礼を生きない。

 まず一番大きな問題は、この「現代ファンタジー」というのを、佐藤がいつ頃のものとして捉えているかだ。

 例えば「月姫」では、様々な神話やオカルト設定が、ごっちゃに入っている。そのことを指して「ジャンル崩壊以降のジャンル」と言っているようだが、そんなこと言ったら「うる星やつら」は、妖怪も宇宙人も異次元人も入ってたわけだ。手塚治虫の「ブラックジャック」には幽霊も超能力者も宇宙人もいたし、「アトム」だって似たようなものだ。

 エンターテイメントの場合、ネタがジャンルとして確立されれば、それらを集めて闇鍋的にぶちこんだ作品が現れるのは、ごく自然なことであって、それだけだと、わざわざ「現代ファンタジー」と呼ぶ意味がない。

 先を読むと「異世界/現実世界という二項対立が機能しない」と言っているので、ここで言ってるのは「コンビニ/ネコミミ」の対立が機能しない世界と理解することはできる。で、これも、別に、近年特有でも新しいものでもないんだよな。

 また前にも書いたが、その場合「月姫」は現代ファンタジーから除外される。「月姫」の世界は、設定自体は色々な文化圏の設定が混ざっているが、作中で「コンビニ/ネコミミ」……月姫の場合「学園/吸血鬼」な区分は、しっかりと線が引かれている。

 次に、「作中人物は「異界往還譚」という通過儀礼を生きない。」とある。これを俺は、「ケ/ハレ」な区分の消滅という意味で捉えたが、これについては、マルセルさん、Fさんに、行き過ぎを指摘された。そのへんを踏まえて、もう少し細かく書いてみる。

 ファンタジーとかで、ケ/ハレや異界往還を通じて、キャラが成長する物語は、通常「通過儀礼」モチーフに分類される。
 「通過儀礼」は、それを通じて、社会から、大人になった(成長した)と認められる物語だ。子供が、ちょっと背伸びした冒険をして帰ってきて、お母さんが泣いて、お父さんが無言で握手してくれる、みたいなストーリーだ。

 だとするなら、「Kanon*1は、間違いなく、「異界往還&通過儀礼」に分類される。
 「Kanon」の場合、通過儀礼を通して主人公が得る社会的な位置づけは、家族である。主人公と恋人は、通過儀礼を通して、秋子さんの元に再編成されるわけだ。「Kanon」は家族を前面に押し出したゲームだが、それ以外のギャルゲー/エロゲーでも、単純に伴侶を得て、社会(家族、友人)に公認させるということ自体が「通過儀礼」の結果であると言ってもいいだろう。

 そういう意味での「異世界往還」モチーフは、今も昔もギャルゲーの中に大きく存在してるし(無論、そこから外れるストーリーもある)、「通過儀礼」もしかり、ということになる。

 もちろん、「Kanon」における社会=家族は、非常に小さなもので、「通過儀礼」ストーリーとしては弱い、と言えるかもしれない。ただ、これはマルセルさんに質問なのですけれども、「ジャンル崩壊以前」の、機能している「異界往還、通過儀礼のストーリー」って、どんなものが想定されます?
 そういう作品と比べて初めて、「Kanon」が「通過儀礼」として機能してるかどうかが言えると思います。

 俺の感覚だと、別に、昔だからって、そんなに「通過儀礼」らしい「通過儀礼」なストーリがあったわけではないような。上に書いたように「お父さんに、ちょっと認めてもらえて嬉しかった」レベルじゃないすかねぇ。

*1:スペリングミスを修正しました。