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佐藤がギャルゲー運動について述べている箇所を見てみよう。
したがって私たちはとりあえずの結論を簡潔に述べよう。九〇年代後半以降に生まれたギャルゲープレイヤーは孤独な存在である。ゲームプレイの一部始終は個人的なレベルに属するからだ。しかし本論を通じて明らかになったように、無数の二次創作を生み出す市場およびネットワークに接続したプレイヤーにとって、いまや『To Heart』=ギャルゲー空間は、あたかも自律的に生成されたような世界にまで成長し、それは「前ネットワークゲーム」的洋装すら呈している。(中略)孤独なゲームプレイから派生した欲望は繋がりを求めている。よってギャルゲーは、いずれネットワークゲームを指向するだろう。それこそがゲームの夢だからだ。
正直、頭が痛い。
なぜなら、「ギャルゲー運動」と書きつつ、ここには「ギャルゲー」特有の事情は何一つないからだ。
まず孤独なのは「ギャルゲープレイヤー」に限らない。独りでやるタイプのゲームのプレイヤーは、みんな孤独だし、アニメや小説、映画や音楽鑑賞だって、基本的には孤独だ。
趣味人が、自分の趣味の話し相手を求めるのも、わざわざ聞く必要もないくらい当たり前のことだ。
上の理論、アニメ、漫画、ラノベ好きが、同人誌を作ったり買ったりして話題を共有する、というのにも当てはまるが、だからといって、「アニメはいずれネットワークゲームを指向するだろう」とか言うのは、バカバカしい限りだ。
ここで切ってもいいんだが、もう少しだけ、佐藤の言わんとするところを汲んでみよう。
趣味というのは独りでやるより、同じ趣味の人と話したほうが嬉しい。だから、消費者にとって、作品がネタとして共有しやすい、ということは重要だ。ネタとして共有されやすい作品は、これからも作られてゆくことだろう。
作品がネタとして共有され、同人誌やSSといった形で再生産される時、そこには、「ネコミミ/コンビニ」「ケ/ハレ」の区別が失われ、永遠に終わらない日常の中で、キャラ同士の絡みだけがある世界が生まれる。
そこで佐藤は、大本のギャルゲからも、「ネコミミ/コンビニ」「ケ/ハレ」の区分が失われ、キャラだけが動き続けるネットワークゲーム的なものに変化する、と考えてた。
これは間違いである。
佐藤が勘違いしてるのは、彼の言うギャルゲー空間が成立してるのは、単に、消費者が二次創作をする時に、そっちのほうが楽だからであって、そういう一次創作を求めているわけではない。
つまり、プレイヤーは、「月姫」の、豊富な世界観、異界往還と波乱万丈のストーリー、きっちり立ったキャラに感動した末に、SSを描くわけだ。
佐藤の理論だと、もし月姫に、あの世界観や、あのストーリーがなかったら、プレイヤーは、より同人誌やSSを作りやすくなるから、そっちのほうが優れている、ということになる。
で、そんなことは、ない。月姫から、世界設定を抜けば、作品が死ぬだけだ。
そもそも「ネタとして使いやすい」作品というのは、ギャルゲや現代ファンタジーの専売特許ではなく、ずっと昔から、娯楽作品が志向していた方向なのだ。ずっと昔から、趣味人は孤独でつながりを求めていたからだ。よって、それを満たすための様々な方法論が生まれている。
その方法論として、Kanon的に、「コンビニ/ネコミミ」の対立を弱めることで、不思議な雰囲気を醸し出すものがある。
一方、月姫的に、「学園/吸血鬼」を厳然と分けることで、緊張感のある、ドラマティックなストーリーを作るものもある。
そして、作者は、自分の資質や流行、市場に合わせて、様々な方法論を選択してゆく。
これらは、「ギャルゲー運動」のように、どちらかが目的地、終着地となるような性質のものではない。
「Kanon」的な作品も「月姫」的な作品も、ギャルゲの世界では、繰り返し生まれるだろう。ヒット作が出れば、そこに流行が生じ、追随作品が生まれて一方が優勢になるように見えるかもしれない。それが続けば、皆が飽きた頃に、揺り返しが来て、新たな流行が生まれるだろう。
また、これは別に「ギャルゲ」に限った話ではなく、漫画、アニメ、小説などのジャンルでも同じように起きていることなのだ。